種籾は播種の前に水に数日浸しておく。少し長く浸し、播種後十日ほどで芽がでるようにした。桶に入れた水へ種籾を浸すと、バカ稲と呼ばれたシイナ(粃)は浮くので取り除く。時折掻き混ぜ、播種の当日早朝に水を切り、暫く日陰で風を当てておく。
摘田は、種籾と堆肥を細かくしたツクテや灰などと混ぜて摘む。種籾との混ぜ物は家により違い、ツクテのみ・木灰のみ・ツクテと木灰を混ぜたもの・ツクテと木灰を混ぜ下肥で練ったものなどがあった。
ツクテはシモヤ(下屋)に積んだ堆肥を幾度も積み返し、天気の良い日に広げて乾し、三分目ほどのヤヌケという籾篩(もみふるい)でふるって細かい堆肥を選り分けたものである。木灰は山林の落ち葉のクズハキをしたクズや、同じく山林の下枝や笹を刈るモヤ分けで刈ったものなどを焼いて用意する。また、稲藁・麦藁を焼いて白い灰になる前に下肥をかけて消し、練って作ったクンタンと呼ばれる灰も使われた。
種籾とこれらツクテや木灰を混ぜるのは、摘田をする当日の朝であった。庭の地面にまぜ物と種籾を広げ、手鍬で切り返して混ぜる。混ぜると、肥俵へ詰める。肥桶五杯で肥俵一俵分で、足で踏み込みながら俵詰めした。
種籾の量は、一般に「摘田は種を食う」といい、植田より多く播く必要があった。植田が一反に三升から三升五合であったのに対して、摘田では乾田で四升から五升、ドブッ田で七升から八升は必要であった。種籾とツクテなどを混ぜる割合も様々であったという。摘田の上手な摘田師と呼ばれる人の手を借りることもあり、摘田師は土間へ摘んで見て籾が三粒見えるように混ぜていたという。一摘みに六・七粒の種籾が好ましく、ツクテなどと混ぜた状態で三粒ほど見えるのが適当な割合ということである。摘田師は村内の人や近村の人を頼んだが、明治末ころで日当五〇銭であったという。