2 目籠作り

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 落合地区、乞田地区などの丘陵沿いに住む人たちは雑木林の間に自生する篠竹(しのだけ)を利用して籠を編んだ。編む六つ目の籠はメカゴ(目籠)あるいはメカイ・メケイと呼ばれた。この仕事は自家用の籠を作る目的ではなく、販売を目的として農閑期を中心に多量生産したもので、貴重な現金収入の道であった。仕事も分業化し、できた品物を取りまとめ東京都内の築地や深川の荒物問屋に売りさばく仲買の人も地元にいた。問屋からの注文には地方ごとの特色があり、その注文に応じて様々なものを作っていたが、年末にかけての注文が多く、仲買の注文にあわせて夜遅くまで一家総出で仕事をした。それは、正月を迎えるための貴重な現金収入源でもあった。
 その始まりは江戸時代の終わりころ、現在の八王子市の宇津貫(うつぬき)地区からだと伝えられており、次第に多摩丘陵を西から東に伝播し大正時代には稲城市の方でも作られるようになっていた。その伝わり方は小さいころから編み方を習い覚えた女性の結婚によるものだった。多摩市内では落合が中心地で、ここには江戸時代の末期に伝えられ、明治から大正時代には隣の由木(ゆぎ)村(現在の八王子市内)とともに生産、集荷の中心地となった。
 目籠作りは第二次大戦前に下火になっていた。それでも戦後も割烹料亭用の注文があったが、プラスチック製品が出始めることによって注文がなくなり、さらに昭和四十年ころからのニュータウン計画の始まりで材料がなくなり全く作られなくなった。
 用いる篠竹は新しく生えて一年に満たないものでないと枝葉が生えてきて使えなかった。それは農業への雑木林の利用と関連し合っていたのである。