地域的広がり

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明治以降になると多くの記録が残されており、農閑余業として地域的な広がりを見せていたことが分かる。
 落合地区の田中茂家文書に明治二十年(一八八七)の「目籠商業連名簿控」があり、当時の目籠仲買商人及び製造者の西組の人たちの名前が記されている。その内訳は八王子町・八日町・宇津貫村の構成メンバー一八名からなるもので、もう一方の東組は由木村や多摩村のメンバーで構成されたと思えるがその文書は失われている。
 『多摩町誌』には明治二十九年の多摩村納税者一覧が掲載されており、その中に生糸や繭とあわせて目籠の仲買をしている人が八名挙がっている。さらに目籠製造は二名挙がっている。一覧から目籠関連だけを抜き出したのが表3-9である。仲買の人は生糸や繭と一緒に取り扱っていたのであり、地域的には落合地区の人が多かったことがわかる。
表3-9 目籠関連業の従事者数(明治29年)
専業及び兼業名 地区 件数
商業税 生糸目籠仲買 和田 2
生糸目籠仲買 百草 1
目籠仲買 連光寺 1
生糸目籠仲買・材木小売 落合 1
繭生糸目籠仲買 落合 1
鶏・鶏卵仲買・目籠小売 落合 1
繭生糸仲買・目籠仲買 落合 1
工業税 目籠製造 東寺方 1
目籠製造 落合 1
(『多摩町誌』より作成)

 『南多摩郡の副業』には大正五年時点の目籠従業者の住所と人数及び主な字名について示してあり、実際にどれだけの人が仕事に携わっていたかがわかる。それをまとめ、あわせて男女従業者の戸数に対する比率を示したのが表3-10である。
表3-10 多摩村及び近隣の村での目籠製造従業者数(大正5年)
村名 従業戸数(a) 従業員数男(b) 従業員数女(c) 関係する主な字 b/a c/a
由井 45 25 75 宇津貫 0.6 1.6
由木 380 380 730 堀之内・東中野・大塚 1 1.9
多摩 480 150 570 乞田・貝取・落合・連光寺 0.3 1.2
鶴川 45 24 88 野津田 0.5 2
七生 32 20 30 南平・三沢 0.6 0.9
982 599 1,488 0.6 1.5
(『南多摩郡の副業』より作成)

 当時関係していた戸数は全部で九八二戸で、その中で由木村と多摩村とで八八%を占めていた。隣接する二つの村が中心だったのである。多摩村の大正五年の全世帯数はわからないので、いちばん近い大正九年の世帯数をみると七〇七戸である。世帯数に急激な増減がないと考えると、大正五年の目籠従業戸数は四八〇戸であるから半数以上の約六八パーセントの家々がこの仕事に関わっていたことになる。全体で見ると一戸あたり男性は〇・六人、女性は一・五人仕事をしていたこととなり、約半数の男性が関わり、女性は祖母や娘までを含めて仕事をしていた様子が見えてくる。こうした全体像の中でも各村によっては様子が異なっていたようで、由木村は一戸当たり一人の男性とほぼ二人の女性が仕事をしており、他の生業とのバランスの中でも目籠作りが大きな比重を占めていたことが推測できる。一方、多摩村は従業戸数が一番多いにも関わらず一戸当たり〇・三人の男性と一・二人の女性の関わりの程度であり、従業戸数が多い二つの村でも生業構成の違いをみせている。

写真3-6 メカイの初荷(大正初年)

 『多摩町誌』には大正十四年の大字ごとの職業別世帯数が掲載されている。これによると目籠製造は連光寺二、落合二、東寺方七の合計一一世帯、目籠商は落合三、落川一の合計四世帯が専業としてあったことが分かる。国勢調査が行われたこの年の世帯数は七五八だが職業別世帯数の合計は七〇六となっている。一番多い職業は農業であり、五六四世帯となっている。別の統計で副業としては村の合計として目籠製造が一一三世帯挙がっている。この統計の合計世帯数は五三八であり、従事比率は二一パーセントとなる。また、主要な副業の一つであった養蚕を行うところは三二二世帯、六〇パーセントとなっている。大正九年の従事者数と大きく異なるのは各家々の副業としての捉え方に違いがあったためであろう。大正十四年の数値からは多摩村での副業の中心は養蚕であったことがわかる。
 『稲城ものとくらし』には「稲城市の目籠作りは大正後期ころ由木村や多摩村から嫁にきた人たちにより、両村に近い、坂浜字上谷に技術がつたえらえたと思われる」として大正時代の終わりころに始まったことが記されている。あわせて文献からの生産地のリストアップから、由井村で始められた目籠作りが次第に東に向けて伝えられていった流れが示されている。技術は主に仕事の担い手であった女性の結婚によって伝えられたのである。そこに示された目籠技術の東への伝播は次の通りである。
一、由井村 (宇津貫) 文化年間 (一八〇七~一五ころ)
二、由木村 (堀之内・東中野・大塚) 嘉永年間 (一八四八~五三)
三、多摩村 (東寺方・落合・乞田・貝取・連光寺) 慶応元年 (一八六五ころ)
四、七生村 (南平・三沢・新井・万願寺) 明治末期? (一八九八~一九一二)
五、鶴川村 (野津田・小野路) 大正初期 (一九一二~一六)
六、稲城村 (坂浜上谷・平尾・宮ノ台・矢野口) 大正後期 (一九二一~二六)
七、柿生村 (王禅寺・早野) 昭和初期?


写真3-7 囲炉裏端でのメカイ作り(昭和50年ごろ)