田中茂家文書の中に各地から寄せらた目籠注文の葉書が含まれている。これらによって明治中期において各方面で求められた製品の種類を知ることができる。葉書は明治十六年から明治二十六年の十年間にわたるもので、遠くは静岡県三島市から神奈川県、埼玉県にわたり、近くは中野村(現中野区)、芝(港区)、日本橋(中央区)からの注文がみられる。注文の様子は全部で三五品目もの種類が作られていたが、主に三月は静岡県からの茶敷、四月、五月は埼玉県の川越、所沢からの茶敷の注文が増えた。十月から十二月には日本橋(港区)・川崎(川崎市)・中野(中野区)から市場用のムキミや台所用のオオヒラ・チュウヒラの注文が集中した。年末の注文は魚屋や八百屋がお客に対して行ったお歳暮や年始のあいさつ用の笊としての注文だった。
小泉滿治家文書には明治、大正から昭和二十年代までの売上帳が残っている。その分析によると明治時代は多くの種類の注文があったことと、特にヒラダイの注文が多かったことが特徴である。しかし、次第に注文の品種が減り、第二次大戦後特に注文が増えてくるのは三つ一組のジョウメズであった。雑な籠から手の込んだ細かい細工の籠へ需要が変化したことを示しており、第二次大戦後、サービス用のものから割烹料亭などの料理人が使う実用向きのものに注文が変わったという伝承にも相通じる。