生活の中の目籠作り

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男性と女性では仕事が分かれていた。材料をこしらえヨコマワシまでが女性の仕事、スジイレとフチマキが男性の仕事というように男女の分業によっていた。落合地区の跡取りは由木から嫁をもらう人が多かった。由木の方がメカイづくりの本場だったともいう。男の仕事と女の仕事が分かれていたからすぐメカイ作りの戦力になるためにはやはり実家でメカイを作っているところの方が良かったのである。由木で結婚前の娘のいる家には、夕方になると何とはなしに若者がやってきて父親と話をして帰ったり、仕事を手伝ったりして帰ったという。娘をもらうには、まず父親に気に入られなければならなかったのである。一方、町場から来た嫁は苦労した。まずシキフミから習い、続いてヘネヘギを覚えた。
 子どもの手伝いとしては、最初の仕事は篠の皮むきで小学校一年のころからはじめた。仕事は見よう見まねで覚え、皮むきとシリカガリが主な仕事だった。やがて成長し仕事になれてくると少しずつ割る仕事やシキを編む仕事に入っていった。
 ジョウメズなどの上物とザツメカイの違いは材料取りの丁寧さに表れ、上物は太さの揃った竹でしかも四つ割りにしてヘネを取らないとできなかったが、ザツメカイの場合は六つ割りとかにしてたくさんヘネを取ることが出来た。
 ヒトッコレできたなあというころをちょうど見計らって問屋さんが来ていた。第二次大戦前でジョウメズ二〇組ヒトッコレが一円ちょっとであった。よく年末にはヒトッコレ分前借りして作るところがあった。納期を決めて前借りして作る場合があったが、前借りしたあと作るのはつらかったという。
 一番多く作ったのは十二月である。夜遅くまで家族総出で仕事をし、夜食にさつま芋を焼いたのを食べて一時か一時半ころ寝ることが普通だった。夜、外便所に小便に出て空を見上げ、「三ツ星がもう傾いているから寝よう」とかいって時間の目安にしていた。
 二十七、二十八日まで頑張ってヒトッコレ作り、問屋に持っていった。すぐに現金収入が得られるから「正月に長靴とか酢蛸を買おう」といって仕事に励んだものだったという。
 目籠作りは養蚕より収入が良かったともいわれる。養蚕は病気が出たら大変だったし気候などに左右されたが、目籠作りは当たり障りがなかったからだという。