南多摩の地域で養蚕が盛んに行われたのは、明治から昭和初期にかけてであった。『南多摩郡史』(大正十二年刊)に掲載された、同郡の養蚕戸数と収繭(しゅうけん)高などの統計によれば、大正六年の郡全体の収繭高は、繭、玉繭、屑繭の合計で、春蚕二一、二八七石五〇升、夏秋蚕一六、五一八石四〇升とある。同郡の一村である多摩村は、大正十年の春蚕は三五〇戸が五六二石一〇升を、夏秋蚕は三九〇戸が四九三石五〇升を収繭しているが、他の村々に比べると一戸当たりの規模は小さいものであった。
大正中ごろまでは大きく蚕を飼う家が少なかったことは伝承でも語られており、春蚕(はるご)・夏秋蚕(かしゅうさん)・晩秋蚕(ばんしゅうさん)の年三回の農家は少なく、春蚕、夏秋蚕の年二回の農家が多かったといわれる。晩秋をせず年二回の農家は、春蚕は五月節供までに掃き立て、初秋蚕は七月の二十四~二十五日に掃き立てていた。一般に春蚕を多く飼い、収繭量の多い農家を「百貫(ひゃっかん)取り」と表現したが、そうした農家は少なく五〇貫目ほどの家が多かったという。初秋蚕・晩秋蚕はさらに少なく、初秋で二〇貫目、晩秋で二〇から三〇貫目程であったという。
農家が副業として養蚕へさらに力を入れるようになったのは、大正末からであったといわれ、中には年四回行う農家も出てきた。こうした、回数を増やせる家は、桑畑を充分に用意できる農家であった。一回の収繭量も年間の回数も、桑畑と人手によって左右されるが、谷戸のある丘陵地域では山林を開墾して桑畑にできたり、稲作を植田と摘田を併存させて春の仕事量を分散調節できたことから、多摩川沿いの二毛作地域よりも養蚕に力を入れる農家の割合は多い傾向にあったという。それでも、第二次大戦前には二毛作地域でも畑の半分が桑畑となったといわれるが、第二次大戦中及び戦後の食糧増産のために、食用農作物の畑へ切り替えられ、養蚕は急速に衰微していった。