写真3-12 共同での薪の伐採(昭和18年前後)
伐採するのは炭にする樫、檪、楢などの落葉樹だけで杉、檜、松には手を付けないのが決まりだった。栗も炭にしたが、何本かは大きく育てて建築用材にすることもあって、契約の時伐り残す木を取り決め、山の持ち主は伐り残す木に印を付けていった。
木は二月末ころまでに伐るのがよいとされた。それは伐採後の若木の生長を考えてのことだった。木を伐ったあとの切株を台木といい、春先になると台木の横から芽が出てくる。これをホイと呼び、成長して立木になるものである。まだ木が水を吸い上げない二月末までに伐るとこのホイの出る本数が少なくて立木の生長もよかった。伐採が遅れて木が水を吸い上げ始めて後伐採すると、その後ホイがたくさん出てたくさんの木が育ち、成長はあまりよくならなかった。それは山の持ち主にとっては次に木を売る際、よい木が少ないことになり山を売る値段に影響するから契約の際伐り終わりの日を決めておき、これに遅れるとホイデといって山の持ち主にマイナスになる分の費用を伐る側が負担して期間延長をするようなこともあった。
伐採後の山はしばらく放置して勝手にいろいろな木が出るのにまかせておき、三年ほど経った時薪炭になりそうな木だけを残してあとは間引いた。これを山の手入れといい薪炭用のりっぱな山にするために欠かせない仕事であった。その後は伐採まで冬のクズハキを続けた。
近くの山を買って炭焼きを行うだけでなく、四、五人の仲間で遠くの山へ炭焼きに行くこともあった。明治から大正のころのことだが、乞田地区や連光寺地区馬引沢(まひきざわ)の人たちが甲府(山梨県)の方まで炭焼きにいったことがあるという。その際、山の立木を買うことは値段が安くたやすくできたが、窯を作る土質が悪く苦労した話が残っている。