窯築き

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炭窯を新たに作ることをカマツキ(窯築き)という。窯を作るのに適した場所は近くに水のある所、砂土が近くにある所、道路そばで、できた炭の運搬に便利な所であった。水の便は窯の口を塞ぐときに使う泥練りに不可欠であり、砂土はカマツキに必要であった。
 カマツキは基本的には薪を積み重ね、これを型にして上に土をのせて堅く叩き締めて窯の外形を作る方法をとる。
 最初からみていくとまず砂土を運び集める。そして築く場所にお神酒をあげて地祭りをする。築き方として、地面を掘り下げる。そこへ一尺六寸の薪を二段に立て並べ、その上に二尺ほどのナグリマキを横にのせていく。甲が丸くなるようにナグリマキをおくと上から薦(こも)をかけ、縦横に縄をかける。
 二尺五寸ほどの高さ回りに石を積んでいき、側面の壁をつくる。石壁の上面をカタ(肩)と呼ぶ。このカタから上に砂をのせていき、天井を作る。砂は山砂でさらさらした白い砂を選んで使った。薦を巻いた上に砂をかぶせ、数人で棒で叩いていく。叩き上げていくと砂に粘りが出てくるので、そうなるとさらに砂をかぶせて叩く。これを繰り返して二〇センチメートル以上の厚さにしていく。
 天井ができると上に薪を置いて火を付け、天井を乾かす。これを丸二日間くらい続ける。天井が完成すると口から中に詰めた薪をいったん全部取り出し、中に入って天井の内側のはみ出した砂を鎌などで切り取りながらならしていく。これを怠ると炭に砂がかんで商品にならないという。
 これらの作業をすませて改めて薪を詰め炭焼きを行うが、型を取るために積んだ薪の量を一〇とすると実際焼くときに入る量は八くらいになったという。
 炭は大部分が俵詰めにされ出荷された。自家用には蚕室の暖房用、糸引きのための湯を沸かす燃料、茶を蒸すための燃料として使われるくらいで、日常の火鉢での暖房用としては用いられなかった。
 明治時代は一貫目くらいの小さな俵に詰め馬の背に付けて八王子方面に売りに行った。野猿(やえん)峠まで運び、そこで八王子からの仲買人に売った。料亭や機屋(はたや)からの需要が多く引っ張りだこで売れたという。機屋へ出すのは火の粉の跳ねない樫の炭であった。明治四十四年の南多摩各村の木炭の移出先を見ると各村が近くの町場に出荷していることがわかるが、多摩村は府中町へ主に出していたようである(表3-12)。
表3-12 木炭の出荷先
村名 出荷先
多摩村 府中町
稲城村 東京、国分寺村
鶴川村 東京、横浜
由木村 八王子町
由井村 八王子町
(明治44年『南多摩郡農会史』より作成)

 大正時代になると仲買人が来て横浜・東京方面へ出荷するようになった。この頃になると炭俵も大きくなり、横浜出しは四角な俵で一俵が八貫、東京出しは丸い俵で一俵が三貫のものを作った。一俵が四貫に統一されたのは大正末になってからである。

写真3-15 炭の計量