農家では、子どもが育って働き手が増えたり分家を出すことが近くなると、新たな耕地を求めて山林を開墾した。その開墾をアラクを切る、あるいは、アラクを起こすと呼ばれていた。特に、小作が常畑とするために地主の山のアラクを切ると、四~五年はその耕地の小作料を免除されたことから、手間と体力のいる開墾をする家もあったのである。
山林でアラクを切る場所は、耕作に通う都合や日当りなどが考慮された。山といってもそれほど深く高い山ではないので、平らな畑を得られる山の上にアラクを切ることもある。また、山の北向きの斜面でアラクを切る家もあった。これは、旱魃(かんばつ)対策の畑であった。北斜面は日当りは良くないが、日照りが続いても水の心配が要らない利点があるのだという。北斜面でなくても、一般にアラクの畑は旱魃に強いとされていた。特に笹が生い茂るところは、アラクを切っても笹の根が地下に生きており、その根が上げる水で旱魃に強いのだという。アラクの畑を旱魃対策として使う家は、そこへ陸稲(おかぼ)を播いた。田の米が旱魃で被害を受けた年でも、アラクの陸稲は収穫できたのである。さらに用心の良い家では、陸稲の種籾へ瓜や胡麻の種を混ぜて播く。瓜などが地を被い、地の乾燥を防ぐのであった。他に、麦、豆、蕎麦、粟、黍(きび)なども作ったが、養蚕農家の多かった明治末から昭和初期には、桑を植えることも少なくなかった。
アラクの季節は冬から春先にかけてで、三月末ころが盛んであった。アラクを切る作業をアラッキリともいい、樹木を鋸(のこぎり)やクチキリと呼ぶ斧で伐り払い、根を掘り起こし、オオグワ(大鍬)で荒起こしする。その後、アラクハタキ(アラク叩き)をする。これは、マンノウグワ(万能鍬)で叩くように土を崩し整地する手の掛かる作業であった。自分の持ち山のアラクを切る場合は、冬の暇な時を見はからって、山の端の方から少しずつオオグワで起こしていく。毎年徐々に畑を拡げていくのが楽しみであったという。
また、地主が持ち山を開墾する時に、請負業者に依頼することもあった。それは土木請負業者で、一〇人ほど農家の人を集めて組を作りアラクの請負をしていた。働き手の農家は、冬の農閑期に仲間に誘われてアラクに携わったのである。持ち山を開墾した地主は、自家で必要な桑を植えることもあったが、一〇か年ほどの約定で小作に貸すこともあった。
開墾した畑は良い地所であればそのまま常畑としたが、大正期まではおよそ一〇年ほどで植林し山林に戻すことが行われていた。アラクを切った畑は二、三年は肥料を入れなくても良いが、一〇年ほどでジセイ(地精)がなくなるといわれる。山林へ戻すことはヤマナオシ(山直し)あるいは山へ返すと呼ばれ、植える木の種類は、主に櫟であった。
大正末からヤマナオシをせず、そのまま常畑とすることが多くなるが、それは農家が常畑の耕地を必要としたことの他に、炭の需要が減少したことがあげられる。明治十二年の関東大震災の後にコークスが普及し、炭がそれまでのように売れなくなったのだという。震災前までは炭の需要も高く炭焼きが盛んであったので、その原料となる櫟が必要であった。植える櫟の苗は、奥多摩方面から買っていたそうである。
炭は養蚕の春蚕の蚕室を温めるのにも使われ、明治末ころにはその需要もあってアラクを切っても、畑とせずに櫟を植えるヤマナオシも行われていた。また、栗を植える家もあった。