山や畑の際などに古くから生えている柿があったが、それらは渋かったり甘味の少ない柿であったので、農家の屋敷まわりへ甘味のある禅寺丸(ぜんじまる)を植え、秋には収穫して市場へ出していた。禅寺丸は柿生(神奈川県川崎市麻生区)の王禅寺から広まったもので、戦前には人気のある柿であった。
柿は一年おきに実を多く付けるので、柿の世話も一年おきであった。その世話は、枝先を折って結実を促す作業である。柿が芽吹く前の四月中旬にエダオリ(枝折り)する。竹竿の先に付けた金具で枝を折る。そうすると、折った手前から芽が出て翌年に実をつける。柿が熟してくると、枝が垂れて下がってくるので、カイバリと呼ばれる突っかえ棒をするほど実をつけた。
柿をもぐのは、九月末から十一月にかけてであった。バッササミで枝ごと捩り折って収穫する。バッササミは竹竿の先を一尺程割って、口を開けるように切って柿を挟み易くしたものである。竿は大名篠が良いとされたが、真竹や淡竹(はちく)でも良かった。柿の木に梯子を掛け、幹につかまりながらバッササミで柿を枝ごと折り、近くの枝に掛けておいた柿もぎ籠へ入れる。この籠が一杯になるとクズ掃きに使うような大きな籠へ移し、家の土間へ運び出荷の用意をする。まず、枝ごと折った柿を十個寄せて枝を集めて数本の藁を巻いて束にする。これを枝柿(えだがき)といい籠へ入れて出荷する。
籠を馬に背負わせたり荷車を引いて出荷したころは、高さ五寸ほど、横幅一尺七・八寸の楕円形の柿籠を用いた。出荷先は八王子や立川、神田の市場であったが、市場へいく道筋に待ち構える仲買へ売ってしまうこともあった。馬で野猿峠まで行くと、峠の茶屋に八王子の仲買が買いつけにきており、運び先の八百屋を指定された。昭和十年代には自転車で引くリヤカーに高さ二尺、横幅二尺五寸、縦幅二尺ほどの四角い籠を積んで運ぶようになった。この大きな四角い籠には枝柿が山盛りにして五〇束ほど入った。市場へ運ぶと枝柿を籠から出して並べていた。
また、柿を買う仲買が農家の柿を一本幾らで買い取ることもあった。そうした仲買が東寺方地区におり、近村をまわって農家から仕入れて出荷していた。