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山林の山栗は多少でも現金になるので拾いにいく農家も多かった。栗拾いの季節は九月から十月にかけての一か月半ほどであった。山栗を拾う農家はどの山で拾っても良いのだが、先に拾われてしまうので競って早朝に山へ行った。山栗は実は小さいが実を付ける数は多い。イガからはぜているものもあるが、イガに入った栗もあるので、剥くのに桑切り鎌と、籠を持っていった。拾い集めてきた栗は家の軒下に広げて干してから、笊などに入れて土間の端へ置いておく。それを柿と一緒に市場へ出した農家もあるが、仲買に買い取ってもらう農家もあった。

写真3-16 栗拾い(昭和40年ごろ)

 東寺方には二軒の仲買がおり、村々の農家をまわって山栗を集めていた。その一軒は、明治二十年ころからの栗の仲買であった。仲買は、農家が土間へ置いておく栗を竿秤で計り、一貫目幾らで買う。栗の粒の大小は特に分けることもせず、目見当で大きいものが多いか小さいものが多いかで値を決めていた。麻袋や南京袋を担いで歩いて栗を集め、自宅へ運んではまた農家をまわる。竿秤で目方を計量する以前は一升枡で計量していたという。
 朝から夕方まで農家を回り、その日のうちに問屋まで運ぶ。昭和初期に東寺方の仲買が栗を運んだ問屋は、本宿(ほんしゅく)(現府中市)と大沢(三鷹市)にあり、大八車に積んで運んだ。多摩川の水の少ない時期は仮橋がかかるので、それを大八車を引いて渡ったが。橋のない時期は、渡し船に大八車の車輪を外して載せて渡っていた。問屋では栗を籠の篩にかけ、粒の大きさで特級、中級、ゲソの三つの等級に分け、神田市場へ出していた。仲買は問屋から毎日現金で支払を受け、その金で農家から仕入れたのである。
 また、実の大きな栗を植えると良い収入になることから、屋敷まわりに栗の木を沢山植えたり、山林でアラクを切った畑へ植えて、秋に収穫して出荷する家もあった。そうした家は、小金井(小金井市)の栗苗の斡旋業者から馬の栗毛のような良い色をした栗の成るセキノ、ギンヨセ、シモッカブリといった苗を買って植えていた。うまく当ると、季節には毎日五貫目から一〇貫目も栗が取れたという。

写真3-17 栗の選別のひととき