多摩川、大栗川、乞田川の河川流域の多くの水田では、裏作に麦を作る二毛作が行われていた。多摩川流域の一ノ宮地区や、関戸地区、大栗川沿いの和田地区や、東寺方地区、乞田川沿いの乞田地区などに多く、それに連光寺(れんこうじ)地区、落合地区の一部の乾田でも行われていた。大正三年刊の『南多摩郡農会史』によると、当時の多摩村では一七八町九反一畝一〇歩の田の内、六四町の田で麦作が行われており、水田の三分の一が二毛作田であった。昭和に入ると暗渠(あんきょ)排水を行い二毛作のできる田への改良をした地域もあるので二毛作田の割合はさらに増加している。
先に述べた地域のなかで最も二毛作の多かった地域は、多摩川の氾濫原(はんらんげん)であった一ノ宮地区と関戸地区であった。この地域の耕地は洪水の影響が大きく、砂混じりの水田があった。砂の混じり具合で多少堅い田もあったが水はけは良く、水田の裏作に麦を作るには適した耕地であった。イツクという表現をするが、砂が多いと代掻きをしてもすぐに砂が沈殿して表面が堅くなる田もあり、そうした田は落ち葉を入れて柔らかくする努力をして二毛作田を維持していた。以下の稲作慣行には二毛作田を経営するための工夫が多く見られる。