水利慣行

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多摩川沿いの一ノ宮地区の水田へ引く水は、日野市を流れている浅川から引いた一ノ宮関戸連合用水であった。戦後、改修などの補助金を得る関係で法人となり一ノ宮関戸外四ヶ字連合用水となった。四か字には、落川、百草、東寺方、和田が入るが、その四か字が加わっているのは、それぞれの村の農家が、一ノ宮の土地に入作(いりさく)に入っていたからであるという。
 日照りで用水の水量が少ない時には、水番を一ノ宮地区と関戸地区が二日交替で勤めていた。田植えの時期も両地区は交替で水を引くことになっていた。一ノ宮地区が田植えを二日すると、翌日は関戸地区の田植えで、毎日交替に田植えをしていた。そのため「植え止め」といって、田植えの支度が整っても、自村の水を引く日でなければ田植えはできなかったのである。
 一ノ宮関戸連合用水は浅川の大口の堰で取水し、その水を程久保川へ落とし、その支流の油免(あぶらめん)の堰(せき)(日野市)で再び取水し、両地区の水田を潤した。この用水のうち、浅川の大口の堰(八王子市)から程久保川までと、油免の堰から落川までは、一ノ宮と関戸の二か村の用水利用者六〇~七〇軒の全戸から作業者が出て、堀さらいをしたものであった。その下流は、一ノ宮と関戸の地域内であり、それぞれの地区で堀さらいを行っていた。四月の苗代を作る前に程久保川から下流の堀さらいと、油免の堰普請を行う。苗代に必要な水程度であれば程久保川の取水で間にあったのである。浅川の水を大口の堰から取水するための堰普請は、本田の代掻き前の六月十日ころに二か村の用水使用者が総出で行った。堀さらいには鎌、鍬(くわ)、スコップなどを持ち寄り、堰普請には蛇籠を持って行く。
 この、一ノ宮関戸連合用水の蛇籠作りは、農家であったが器用な人が毎年春先に小野神社の境内で編んでいた。真竹で直径一尺五寸、長さ三間ほど蛇籠を編み、四月までに三十本ほど作り積み上げていた。
 蛇籠を神社から堰まで運ぶには二本の蛇籠を並べ、横から棒を三か所通し、蛇籠の間に三人入り担いで運んだ。蛇籠へ入れる石は籠を杭で打ってから河原の石を手渡しで入れる。堰に積む蛇籠は秋の台風で被害を受けることが多く、大水が出て堰に積んだ蛇籠が根こそぎ流されると堰の普請は大仕事であった。
 浅川の大口の堰は、取水口のわずか下流に取水口側から斜め上流に向けて蛇籠を積み、取水口付近の水面をいくらか高くしたのである。そこでの蛇籠の積み方には三本積みと六本積みがあった。三本積みは二本並べた上に一本重ねて積み、六本積みは三本並べた上に二本を、その上に一本を積み重ねる。さらに、六~七尺間隔で山型に掛けるように蛇籠を載せ、松の杭で打ち止める。欅の一尺四方で長さ一尺五寸ほどの大きくて重いカケヤで打ち止めた。このカケヤは渡船場の杭を打つのに使われていたものであったという。大水での荒らされ方にもよるが、こうした蛇籠を二組ほど繋げて対岸に向けて張り出すが、対岸までは渡さずに流路は残されていた。