二毛作田で古くから作られていた粳(うるち)米の品種には、六部(ろくぶ)と呼ばれるものがあった。これは早稲(わせ)に近い中稲(なかて)で、収穫量は少ないが味の評判は良いものであった。そのほか東山(とうざん)という早稲、銀坊主(ぎんぼうず)という中稲、八島千本(やしませんぼん)という晩稲(おくて)も作られていた。また、品種名とはいえぬかもしれぬが、土地でオダテと呼ばれる中稲が大正期から作られてきた。これは、養蚕で使われるオダテに付いていた籾を播いたのが始まりだとする伝承を持つ。オダテは藁を編んだ敷物で、付いていた籾が良い粒であったので、取り集めて播いたのだという。他所から来たオダテだというが、何処から来たのかは伝えられていない。
糯(もち)米の品種としてはオカメが作られていた。丈が長いため風で倒れやすく収量は少ないが、藁が丈夫なので草履(ぞうり)を編んだり縄をなうのに適していた。丈夫なオカメの縄はムシロを織る縦縄には最適であった。こうした二毛作田で作られた稲は、晩稲を作る家もなかったわけではないが、早稲や中稲を作る方が都合は良かった。稲刈りを早く終え、麦を播く準備を始めるには、早く稔る品種の方が、適していたのである。
種用の籾は出来の悪い田から収穫すると表現する人がいた。この出来が悪いとは稲の草丈の伸びが悪いことを表現したものである。この田は稔っても穂先が垂れずに立っており、草丈は低いが穂のアカルミ(色付き)が良く、かえって籾の粒は良いのであった。
同じ品種を作っても気候や土質、肥料によって稲の育ちが変わるが、特に多摩川沿いの田は、寒いところと違って草丈の伸びが良い割に米の出来は今一つであったという。草丈に養分が取られた稲よりも、丈は低いが茎のしっかり育った稲の方が米のできは良かった。肥料や土質の関係で背は低いが稔りの良い田があり、その田から刈り取った稲穂から丁寧に籾を扱き落として、翌年の種籾用として叺(かます)へ入れて保存しておいた。