苗代とする田は用水堀に近くて水かかりの良いことと、本田へ苗を運ぶのに便利であることが条件であった。また、苗を植える本田が分散していれば、その中央の田を選んでいた。そして、麦刈りを待ったのでは苗代作りが間に合わぬので、苗代にする田では二毛作は行わなかった。面積の目安は本田一町歩に対して苗代五畝ほどという。苗代の起耕は人力であった。人手があれば年暮れのうちに四本鍬(しほんぐわ)で起こしておく。起こされた土の塊は冬の間に霜などで風化する。一冬の間の風化でサラサラとした土質となり、四月二十日過ぎに用水を引き、水を張ればすぐドロドロの苗代となった。
水を張ると緑肥を入れる。緑肥は自家用に栽培した野菜であった。辛子菜や三月薹(とう)など蕾(つぼみ)のでる前に食べる野菜で、取り残して花の咲いてしまったのを取ってきて二寸ほどに刻み苗代に振りまき、手で押し込んだ。苗代に草を押し込んであると、苗の根が深く伸びぬので苗取りがしやすいのだという。
代掻きを終えて平らに均(なら)し、水を落として二~三日置く。縄を四尺幅に引き、その間を短冊の苗代とする。縄の位置を歩きながら種を播く。第二次大戦後になると苗代を台形に盛り上げた「上げ床」と呼ばれる苗代が作られるようになる。これは三尺幅で縄を張って筋を付け、その筋に沿って五寸幅で泥を両側手で上げて歩く道を作り、土を上げた面を板にT字形に柄を付けたエブリで平らに均して仕上げる苗代であった。