農馬・役牛

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田起こしに牛馬も使われたが、古くから農耕用に使われてきたのは馬であった。大正三年刊の『南多摩郡農会史』に記載された多摩村の耕作用牛馬頭数には牛の頭数記載はないが、一二四頭の馬がいたことが記されている。農家戸数は専業五一五、兼業二六七とあるので合計の八七二戸からすると六~七軒に一頭の馬がいたことになり、南多摩郡内では多い方であった。
 馬を飼うことのできぬ家は近隣で飼う馬を借りるか、博労(ばくろう)の仲介で借りていた。近隣の馬の場合はノリあるいはユイと呼んだ共同作業の関係にある家々の間でのことである。馬を持つ者が馬のない家の田起こしや代掻きをすると、田植えに人手で返すというものであった。家どうしの関係にもよるが、馬一日に対して人手三日が標準であったともいわれる。
 博労の仲介により借りた馬は、田起こしや代掻きの早い二合半(現在の埼玉県三郷市・吉川町周辺)方面の農家の馬であった。関戸地区にこの仲介をする博労が二軒あり、農家は二~三軒共同で一五日間ほど借りていたのである。六月二十日頃に、博労が四~五頭の馬をつないで廻ってくる。馬を借りた農作業は犂を引いて田を起こし、マンガを引いてこなす(崩す)ことである。馬を上手に使いこなして一日二反の荒代(あらじろ)をするのがやっとであったという。
 赤牛あるいは朝鮮牛と呼ばれた役牛は、大正末から昭和初期に使われるようになったことが記憶されている。『多摩町誌』の昭和二十四年の畜産統計によると、馬の飼養者数七〇軒(雄六〇頭・雌一二頭)に対して、役牛は一四二軒(雄四四頭・雌一〇一頭)に増加している。ちなみに、六〇頭の雄馬はさかりがつかぬように去勢されていた。馬はそれこそ馬力はあったが扱いは牛の方が容易であったことや、馬には藁、青草、大豆、糠、稗、豆などの飼葉(かいば)を与えねばならぬが、牛は粗食で済むこともあり急速に普及していったのである。

写真3-18 牛を使っての代掻き(昭和20年代)

 馬に引かせた犂は起こす土を片側にしか返せず、田のクロ(畔)の縁から回りながら中へと起こして行くものであった。昭和十年ころになると土を両側へ起こす改良犂が使われるようになった。動力耕耘機の使用農家は、昭和二十五年の農機具統計(『多摩町誌』)によると、まだ一軒であった。

図3-24 犂