写真3-20 田植え
苗取りから田植えまでの作業は近所二~三軒での「ノリ」あるいは「ユイ仕事」と呼ぶ共同作業で行われ、その慣行は昭和三十年ころまで続けられていた。ちょうどそのころは田起こしなどに耕耘機が入り始めた時期でもあった。このノリの数軒で農馬を共同で借り、田起こしに使用したのである。数軒のノリで馬を使って代(しろ)を掻きながら苗取りと田植えの段取りをする。たとえば一反の田を起こした翌日、仕上げの代掻きになるとすると、男たちは午前に代を掻きその間に女たちが苗を取り、午後から皆で田を植える。苗取りして植えるまであまり日を置くと苗が痛んでしまう。それを避けるため「三日苗を植えるな」という言葉があった。苗の束を三日も置くと必ずといってよいほど苗束にミミズが潜り込み、根を痛めてしまう。そこで適宜に代掻きと田植えを交互あるいは平行作業し、植え残しがでないように苗を取ったのである。
苗取りは主に女性たちの仕事である。長時間、腰を屈ませての作業だが、中腰で疲れても水を張った苗床に腰をおろすこともできぬ。そこで椅子として使われたのがネトリデイ(苗取り台)であった。腰を下ろすにちょうど良い大きさの籠の上に縄を張ったものである。板の箱形の台を使う家もあったが板が水面に吸い付いて動きが悪いので籠の台を使用する家が多かった。苗取りの方法は両手で苗を取り、握りきれぬほどになると合わせて一束にする。苗を大きく掴んで抜くと根に土が絡んで植えにくい苗束となる。そのため、指で探るように細かく掻いて抜くと根の土が落ちて植えやすい苗となる。抜いた苗は藁を巻いて束ねる。
図3-25 苗取り台
苗運びは男たちであった。二尺ほどの径で底の浅い苗籠に入れて天秤で下げて運び、田のクロ(畔)から苗束を田の中へ適当に放り投げる。植える田は「浅水にする」といって水を薄く張っておく。田へ投げ込まれた苗束の藁縄を解いて束を二束に分け、その一つを左手に持ち、三~四本ずつ苗を右手の指先で摘んで五~六寸間隔の株間で植える。中には「八寸重箱」といって、田へ重箱を流しても通るほどに株間を開けると、水の通りが良いという家もあった。深く植えると分けつしないとされ、浅く、倒れず、浮かない程度に苗を田へ置くように植えたものだという。
畔の曲がった田が多く、クロに沿って植え始めるので、稲株の並びもそのクロの曲がりに沿っていた。第二次大戦前後から棕櫚(しゅろ)縄を張って直線に植える家があらわれたが、全ての農家が直線植えへ変わったわけではなく、稲作をやめるまで畦なりの田植えを続けた家も少なくなかったという。中には他所で田植えの枠を使っているのを見てきてまねて作り、使う人もいたが、広まることはなかった。一枚の田へ入るのは二~三人で、植え方は横植えである。二人で植える場合は植え筋の両側から植え始める。右へ歩きながら植える人、左へ歩きながら植える人、両人の植える苗の筋が繋(つな)がると一歩後ろへ下がり、左右に分かれるように歩きながら次の筋を植える。この繰り返しで一枚の田を植える。これは植える早さの個人差を一筋ずつ調節しながら、一枚の田を植える方法であった。三人の場合は一人が端から、二人が端から三分の一程の所から両側へ分かれるように植え始め、順次折り返しを重ねる。田植えの遅い人が取り残されることがなく、稲株の筋の乱れる心配のない方法であった。
苗は余るほどに作るのだが、時には足りぬ家もでる。その時は助け合いである。余った家の苗代から取らせてもらうのであった。苗の余った家でも、いずれ苗代を均して本田にするので、快く苗を分けてくれたものであった。
「植えたら深水にしろ」という。風が吹いて流される浮き苗を防ぐため、水を深くして苗への風あたりを少なくしたのである。苗丈の半分隠れる深さまで水を張れば、強風で苗先が水面に寝ても風が治まれば苗は起きあがる。二日ほどで苗の根が張り始めるので、あとは浅水にする。しかし、田の甲羅(こうら)(地面)を出すと雑草がすぐに生えるので、水は切らさぬようにすることが大切であった。