共同水車が一ノ宮地区にあった。杵(きね)が五本あり、米や麦をつくのに使用していた。一ノ宮地区の十数軒で使用していた。用水で水車を回していたので、田へ水を引く時期は使わず、冬の間だけ水車を稼動させていた。管理をするものは特にいなかったが、一ノ宮地区の農家と、水利の関係で落川の農家数軒も使用していた。
一か月に一回、日を決めてキネホツギ(杵穂接)を行った。冬の間は毎日、米や麦を搗(つ)いたので杵の先が磨耗する。そのために杵の穂先の四寸ほどが着脱式になっており、先がすり減ると新しい穂先と取り替えたのである。これは、毎月二十日であることが多かった。杵の穂先は松で、新しい穂先にする松丸太を買うと用水へ浸けておき、穂先を取り替える時に水から上げて必要な長さに切って形を整えて付ける。松を水へ浸けておくのは木の質が変化しにくいためである。臼に麦を入れ、藁で作った輪を載せ、その輪の中に杵が落ちるようにつく。藁の輪を載せることにより、臼の中で杵の下へ麦が効率よく循環した。この水車が使われたのは昭和十年代前半までであった。電気を引いて電動の籾摺りをする共同作業所ができて、精米や精麦をするようになったためであった。一ノ宮地区と東寺方地区の有山が大正十三年に電気が引かれ、多摩村全般より一年早かったという。有山にも水車があったが、個人経営の水車で、年間通して水車は回っていた。この有山の水車には粉挽きの石臼もあり、一ノ宮地区の家々も小麦粉や上新粉を挽くのを依頼していた。
大麦は押し麦にするか挽き割りするかどちらかであった。大正ころから、押し麦で炊くことの方が多くなり、自家用の押し麦の機械などもあった。精麦のために杵で麦をつくのは難しいもので、水を掛けながらつく。共同作業所で機械でつくようになると、粗挽きには水を打たないが、仕上げで水を打ちながらついた。押麦も水を含ませながらつぶし、押したあとで乾燥させた。引き割りにするときは水を打ちながら精麦した後、筵へ広げて天日で乾燥させて石臼で挽いた。