どの地方の農村でもそうであったように、河川や用水そして水田に棲息(せいそく)する魚類は農作業の合間にしばしば漁獲され、家々の食膳の一品に供されてきた。時には漁獲の主役は子どもたちでもあった。水面下に潜む魚を獲ることは蝶やバッタを追うと同様に子ども心を満足させ、持ち帰った魚はさも当り前に食膳に上った。田に潜む泥鰌(どじょう)や鯰(なまず)を捕りに親兄弟に連れられ、最初は恐る恐る出た夜のヒブリも漁獲に魅せられて子どもだけでも行くようになる。そして、子ども仲間で用水堀を塞(せ)き止め、水を浴びながらのカイボシで共同作業での漁獲を楽しむ。簡便な幾つもの魚法を子どものころから経験して、誰もが大人になった時代があった。田や用水で魚を追った子どもも、流れに負けぬ年ごろになると河川で魚を捕らえることを覚える。多摩川に接する関戸地区や一ノ宮地区の子どもたちは、大人たちの漁を追いながら川漁に親しんで育ったのであった。
その多摩川中流域は砂利採掘で随分と様相が変わり、単調な流れとなってしまったが、かつては瀬を洗う流れの早い河川であった。人々は自家の食膳に供するため漁獲するのみならず、鮎漁により収入を得ることもできたのである。
多摩川や用水掘りに棲息し馴染みのあった魚類として関戸、一ノ宮両地区の人々に語られているのは、鮎・ハヤ(ウグイ)・マルタ・ヤマベ(オイカワ)・鰍(かじか)・鯉・鰻・鯰・鮒・泥鰌・ゲバチ・メダカ、それに川海老などであった。泥鰌には普通の田にいる種類の他に、オニノメドジョウとオバマドジョウがいた。オニノメドジョウは多摩川に棲み用水にも上ってきており、体に縞模様と顎(あご)にケンがあった。オバマドジョウは谷戸田にいて、胸が少し紫色をしていた。ハヤは産卵期の色変わりしたものをクキバヤ、平時の色のものをホンバヤと呼びわけ、ヤマベもバカッパヤと呼んでいた。
これらを漁獲するには、鮎のように季節により河川を上り下りする習性や、鯉・鯰・鮒・泥鰌のような水田への引水落水で移動することを利用した幾種類もの漁法が行われていた。漁法の中には網やド、釣りなど漁具の必要な漁ばかりでなく、多摩川の川縁で川から生える草の間や、用水の縁を篩で掬(すく)えば、思いの外多くの川海老が入ったように、身近にある笊や篩などを使う漁もあった。
漁獲したそれらの川魚は自家の食膳に、醤油で煮つけて出すことが多かった。冬には鮒などの小魚を串に刺して囲炉裏で焼き、藁を束ねて縄を巻いたベンケイに突き立てて乾燥させた。保存が利くベンケイの鮒は、味噌汁の実や湯に戻して煮染めとしたのである。
多摩川で江戸時代より漁を行ってきたのは一之宮村と関戸村、そして、当時多摩川に接していた連光寺村の人々であり、多摩村になってからも漁業組合には三地区の人々が加入し鑑札を受けていた、ここでは、その地域の人々の生業の一角をなしていた川漁を主に述べる。併せて水田や用水での漁法を述べるが、それは他の地区で行われていたことと変わらぬものであった。