春から秋に掛けては、田へ引き入れた水とともに上がってくる泥鰌(どじょう)・鮒・鯰・鯉などを取る。浅い田でのことなので、個人的にドを掛ける事が中心であった。なお、ドを掛けることを「ドを打つ」と表現していた。
まず、泥鰌は主に田へドジョウドを掛けて捕った。このドは長さ一尺ほどで、中の返しのコシタは一つであった。「春は上りに掛けて、秋は下りに掛ける」といい、春は田の水口へ掛けて水とともに田へ入る泥鰌を捕らえ、秋は田の尻に掛けて水とともに下る泥鰌を捕らえる。トッポシで下りに掛けると沢山の泥鰌が入る。トッポシは稲の花が咲く前に分ケツを促すために田の水を落とすことであった。そして稲の花が咲く時期に再び田へ引く花かけ水でも上りに掛けると泥鰌が塊のように入ったものである。このような春秋の上り下りの泥鰌を取るときにはドジョウドの中に餌は入れぬが、他の時期には田螺(たにし)を潰して入れた。夏の暑い日で夕立の来るような蒸した日が良いといわれ、田の水口に掛けて置く。田の水は畦越しの水口から次の田へ流れるが、用水から水の入る一枚目の田より二枚目以降の田の水口へ掛ける方が泥鰌が入ったものである。それは、二枚目以降の田の水が温んでいるからだという。夕刻に仕掛け翌朝小さな魚籠をもって上げに行く。アサヅクリと呼ばれた農作業に早朝からでるのだが、その時に他人のドから泥鰌を出して持っていく不心得者もいたので、早起きして泥鰌を上げに回ったそうである。その他、用水堀の深い所へ沈めておいても泥鰌は入った。ちなみに、昭和初期に泥鰌一升で六〇銭から一円二〇銭に売った記憶のある人もおり、泥鰌は数が捕れるので良い小遣い稼ぎになるには違いがなかった。
ドを掛けるほか、カイボシでもとった。カイボシとは稲の花が咲いた後、九月の彼岸明けに田の水を落とす時期に用水堀の水を塞き止め、中の水を掻き出して魚を捕らえることである。用水に一〇メートルほどの区間で泥を寄せた土手を二か所作り塞き止める。下流を塞いだ土手の上には泥が流れぬように筵を掛けておき、中の水をバケツや手桶で汲み出す。そこに残る鰻・鮒・鯰・ゲバチ・泥鰌などを手掴(てづか)みしたのであった。大人もするが、子どもたちの楽しみでもあった。しかし、遊びの子どもたちは用水脇の泥を崩して使うので、怒られることがしばしばであった。また、同様な魚取りだが用水の水を落とした冬場に、深くて水の溜まっているところでもカイボシをした。溜まった水をバケツなどで掻き出すのであった。汲み出した後の泥の中にも泥鰌や鮒が潜り込んでいるので、泥を手で掻いて掘り出したのであった。
ヒブリ(火振り)という漁法もあった。六月には田へ引いた水が濁って入る中に用水から上がってきた大きな鯰や鯉がたくさんいるので、夜に明かりを持って出かける漁がヒブリである。かつては明かりにヒデが使われた。ヒデは松の古株を掘り起こし割った薪で、松ヤニが溜まり、勢い良く燃えて明かりとなった。小さな鉄板の四方に針金を付けて棒に下げて鉄板の上でヒデを灯す。道具は普通は鋸(のこぎり)であったが、棒の先に釘(くぎ)を櫛(くし)のように並べて打ったブットオシを使う人もいた。鋸は目の荒い薪挽き鋸の古いものなどで、ブットオシは三尺ほどの棒の先に四寸釘を一〇~一五本並べて打って作る。これらで、田の中でじっとしている鯰を叩き押さえる。雨が降った後の濁り水の時がねらい目であった。ヒブリは子どもたちの楽しみであったが、大人も子どもについて鯰や鯉を叩きにいったものである。暗くなると出かけて二時間ほど田を歩き回る。どこの田へ入っても構わず、子どもでも三~四匹の鯰が獲れたものであった。
また、縦二尺・幅一尺ほどの玉網(たまあみ)に九尺ほどの竹竿を付けて、用水堀で鯉・鮒・鯰・ハヤなどを捕った。左手で玉網を堀に突き立て、そこへ右手の竹竿で魚を追い込む。四月から九月まで、田へ水を入れている間に子どもたちが使っていた。玉網には柿渋(かきしぶ)をかけて丈夫にしてあった。