戦前は雨が降ると、必ずといってよいほど半鐘が鳴ったという。多摩川と浅川の合流点の油免(あぶらめん)は多摩川の蛇行で土手が切れやすいところであった。それに加えて堤防が低く、かつ、膨大な砂利により河床が高かったことも堤防が切れやすい原因となっていた。油免が危ないからジョレンと俵を持って来るようにと集合がかかった。昭和に入っても、決壊しそうで俵で土嚢(どのう)を作り積んだことが二~三度あったという。そうした増水時には堤防と川面が一メートルと差のないほどの水量になり、海のように二メートルほどの波が堤防へ打ちつけ、ゴウゴウと音を立て、恐ろしいものであったという。
いよいよ堤防が切れると、川の氾濫と共に多量の砂利や砂が、流域の耕地へ流れ込んでしまった。明治十一年九月の集中豪雨では多摩川と大栗川が氾濫し、明治四十年には関戸・一ノ宮地区の境の堤防が切れ、明治四十三年八月の台風では、多摩川の油免から下の堤防が広く決壊し、多量の砂利砂が両地区の耕地を埋め尽くしたのである。「関戸雑録集」の明治四十年の洪水の記述には「田には土砂が山積し、耕地の約半分は埋没してしまったが、特に堤防ぎわの田畑は被害が大きく、復旧もおぼつかないようであった」とあり(『多摩町誌』)、洪水で多摩川より排出された砂利により耕地の被害が大きかったことを示している。
特に、明治四十三年の氾濫は「天明以来の大水害」といわれ、耕地へ堆積した砂利を農家総出で取り除かなければならなかった。その砂利を積み上げた二反分ほどの山が一ノ宮地区の小野神社の裏にでき、その砂利の山は砂利塚と呼ばれ、同年の洪水の爪痕(つめあと)として第二次大戦後まであった。しかし、洪水後に除いたのは砂利だけで砂までは除けなかったが、田であれば水を入れて耕し、土と混ぜて何とか田として使えるようにしていた。
また、堤防の決壊は砂利を持ち込んだだけではなく、氾濫した水の力で掘り上げられた窪みも残した。そこはダブと呼ばれ沼地のようになった。渡船場口近くの堤防際にかなり広いダブができ、後には鯉をはなして養魚を行う者もあった。
明治四十三年の堤防の決壊以降、東京府が直轄で堤防工事を行うようになり、その人夫出しを関戸地区の小川組と八王子の青木組が請け負うようになり、小川組はその後も毎年継続して堤防の修理を手がけていた。