下河原の政府の砂利採掘場は農家の日雇いの他に常用(じょうよう)と呼ばれる専門の人夫を雇っていた。初夏から秋に掛けては農家が農作業に戻るので人手は減るが、常用を置いて年間通しての砂利採掘を維持していたのである。
一ノ宮地区の農家は、農作業を共同で行うノリと呼ばれる四~五軒で組み、砂利掘りも行う。この組で自分達で砂利の層の良い場所を見つけ出す。堅い所や大きな石の所では能率が上がらぬので砂利の粒がそろっているところを見つけて砂利穴を掘る。しかし、砂利掘りの手当は採掘量の出来高払いではなく日当であったので、良い砂利の山を見つければ請負の小川組の収益となった。
砂利掘りの道具はジョレンであった。ジョレンでジャリモミ(砂利箕)と呼ばれた竹のちりとりに砂利を掻き込む。下河原の政府の採掘所の砂利は掘って鉄道を使って東京へ砂利を運べば良かったが、関戸・一ノ宮の方は砂利を洗ってから出荷していた。そのため、水のある場所でジョレンで掘り、砂利篩(ふるい)でふるい、万石にかけ、砂利の粒揃えと砂を除く作業をした。
篩と万石は組み合わせて使う。三本の竹を三脚に組み、組んで縛ったところへ下げた鉤に篩の一端をかけ、もう一端を両手で持つ。そこへ掘り上げた砂利を載せて振るうと砂利が篩の目から下に落ち、ガラと呼ばれた大きな石が残る。篩には八分目・一寸目・一寸三分目と三種類あり、大きな目の篩から順にかけ、砂利の大きさを揃える。この篩の下に万石が置かれている。万石は農家の脱穀に使う万石トオシと同様に、細かい目の金網を張った枠を傾斜を付けて立てたものである。篩を通った砂利がこの万石の上に落ち、万石の傾斜で滑り落ちる間に砂利に混じる砂を選り分けるのであった。このようにして選別された砂利はジャリモミで掬い集積所まで運び、車に載せて搬出した。ジャリモミは肉厚の竹の表皮で作られた丈夫な箕で、一二~一三キログラムの砂利を運ぶことができた。なお、ガラも家の基礎に使われるなどの用途があったが、下河原の採掘場には砕石所が設けられており、砕いてから搬出していた。
図3-36 砂利ふるい
このような砂利掘りの道具類は基本的には個人持ちで、砂利篩やマンゴクは採掘場所に置いてくるが、ジョレンとジャリモミだけは毎日持ち帰って来たものである。これらの道具の調達はジョレンは府中の鍛冶屋で、ジャリモミは四ツ谷の雑貨屋で購入していた。その他、篩やマンゴクは金網を買ってきて自家製していた。
こうした、一ノ宮・関戸地区の農家の携わった砂利掘りの最も盛んであった時期は、第二次大戦後の東京市街の復興の時期であったという。そして、高度成長期の都市建設をも支えた多摩川の砂利であったが、その採掘は堤防決壊の心配を減らしたが、膨大な採掘は川の様相を変えてしまった。下河原の採掘で四谷の中州がなくなり、鉄橋の橋脚の土台が埋まるほど堆積していた砂利が消え、土台が洗われて危険になり何度かの補修も必要になった。そして、東京オリンピック開催にあたっての関連工事の一段落した昭和三十九年九月十五日に、青梅市の万年橋より河口までが全面採掘禁止となり、翌四十年四月三十日には万年橋より上流も禁止され、多摩川の砂利採掘は歴史を閉じている。