主要な道路

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古代においては国府間の位置関係から相模・武蔵・上総を結ぶ丘陵内の道があったと考えられる。中世になると相模街道と鎌倉街道が整い、以後の重要な幹線となった。相模街道は府中から乞田川沿いに入り、関戸地区、乞田地区大貝戸(おおがいど)を通って落合地区青木葉(おうきば)から谷戸沿いに上がり、荻久保、大沢(現町田市)を経由して小山田の関、鳥居峠を通って三ノ宮に出る道筋であった。鎌倉街道は府中から関戸地区を通り貝取から谷戸沿いに入り、貝取地区瓜生(うりゅう)の峠を越して小野路の石久保(町田市)に入り、小野路の宿(しゅく)に向かう。

写真3-30 鎌倉街道沿いの商店(昭和31年)

 近世になると東海道・甲州街道が中心となり、丘陵の道は裏街道としての役割しか果たさなくなったものの、大栗川・乞田川沿いや谷戸沿いの集落が発達し、これと周辺の中心的都市となった府中・八王子・原町田との経済的つながりの中に交通網が作られていった。
 明治三十九年の地図をもとに主要な道を見ていくと、川沿いの道として一ノ宮地区から東寺方地区を通って和田地区中和田から由木村(八王子市)の東中野へ通じる大栗川沿いの道と、乞田地区大貝戸から鎌倉街道と別れ、落合地区の下落合、山王下(さんのうした)から唐木田(からきだ)あるいは堀之内(八王子市)へ抜ける乞田川沿いの道があった。これは古くからの道そのままであり、川をさかのぼり、やがては八王子あるいは相模原へつながる重要な道であった。

図3-37 地形図でみるかつての多摩(明治39年 大日本帝国陸地測量部5万分の1地形図「八王子」)

 鎌倉街道は小野路(現町田市)から貝取地区瓜生をとおり乞田地区大貝戸で乞田川沿いに関戸地区を通って関戸の渡しに出る道筋であった。古い道筋は『新編武蔵国風土記稿』の一之宮の項に「村内南北に達する一條の往還あり、相伝えて古の鎌倉道なりと云、即ち一宮渡へ出る道なり」とあることから大貝戸から丘陵越えをして東寺方に出て一ノ宮の渡しを通って府中に出ていた。明治三十九年の地図には大貝戸から丘陵越えをして東寺方に出て百草、高幡へ抜ける道筋が太く書き入れてあり、一ノ宮渡しも記載がある。
 その他の主要な道としては連光寺からは多摩川沿いに下流に向かう道と尾根筋を通って連光寺地区馬引沢(まひきざわ)から黒川(川崎市麻生区)へ抜ける道があった。乞田川沿いの道は乞田地区久保谷から谷戸沿いに入り落合地区青木葉(おうきば)から荻久保(南野)を通って小山田に抜ける道があった。小野路からは中尾を通って落合地区の長坂に入り、唐木田、堀之内へ抜ける道があった。これは『新編武蔵風土記稿』の落合村の項によれば「村内に八王子道とて一條の往還有り、南の方小野路村より入て、字長坂と云所へかかり、堀之内村へ達す、道幅六七尺、」とある、その道である。
 図3-38は昭和二十九年の地形図をもとにして主要な道と小径を抜き出して描いたものである。三メートル以上を主要道としてそれ以下を小径として記載してある。主要道は明治三十九年時点とほとんど変わっていない。

図3-38 昭和29年の道路(地名表示及び村境表示は昭和29年修正測量の地理調査所発行2万5000分の1の地形図(武蔵府中)による。3m以上の主要道を太い実線、3m以下の小径を細い実線で示した。)

 大通りと呼ばれた鎌倉街道と二つの川沿いの道を中心にして集落ごとを結ぶ小道が発達し、そこから一番近い町へ品物を運び、買い物へも出かけた。落合地区は八王子へ、和田、一ノ宮、東寺方、連光寺地区の人たちは府中へというようにである。また、明治四十四年の多摩村の産品の出荷先を見ると生糸は横浜、八王子、木炭、薪は府中、米穀は八王子、柿・栗・鮎・目籠は東京というように地の利を活かしてそれぞれ最適地へ出荷されていた(表3-11)。