職人組織

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A氏は一九歳から屋根葺きの仕事を覚え、都合により昭和三十六年に転業するまで続けた。小学校を卒業して一五歳から陸軍に入り、終戦で家に帰った。手に職を付けるということ、朝昼晩の飯を出してもらえるということと親戚に親方がいたことが屋根屋になった理由である。父親の姉の主人が屋根屋の親方をしていたのでそこに弟子入りした。親方は日野市百草(もぐさ)に住んでおり、百草のおじさんと呼んでいた。その先代も屋根職の親方で、福島県から来て由木(ゆぎ)村の越野(こしの)(現八王子市)に所帯をもち住み着いたのだという。このように、かつては会津の職人が冬の間、屋根葺きの仕事に来ていた。毎年、三五〇人もの人が十一月半ばから日光街道を下って関東一円に屋根葺きの出稼ぎに来ていたといい、この人たちをサイギョウといっていた。多摩地域には福島県南会津郡糸沢町からいつも同じ人が一〇人くらい来ており、乞田地区の農家を常宿にしていたという。その親方は八〇歳になるくらいまで職人を引き連れてきていたが、昭和四十年ころ多摩市内で没し、大福寺に埋葬されたという。また他の一団が図師(ずし)(現町田市)の農家を宿にしていた。宿を貸していた家の人たちは職人の世話や、地走りといって農業の合間に手伝いをして手間取りをしていた。
 職人になるのは農家の次男三男が多く、三年奉公で一年が礼奉公だった。屋根屋は大工の一割高日当をもらっていた。A氏が弟子入りしていた時は、身内ということもあって重要な仕事を任された。例えば神社仏閣の大きい仕事を頼まれたとき近隣から職人を集めることを任されていた。
 昔は正月礼といって年始の挨拶に半紙を二帖もって兄弟分の職人へ挨拶に行ったりしていたが、やがて正月二日の日に親方のところに集まるようになった。いちばん多いときで一三人の弟子が集まったことがあるという。その日には蕎麦(そば)を打って箱に入れ、親方の家に持っていくこともした。
 屋根職は字を書く機会が多い職業だったから、親方から習字を習わされた。例えば、寺社の葺き替えの時はその記録を書いた棟札を棟木に縛る。書く内容は年月日と親方弟子の氏名と年齢だった。農家の棟がトタン板に変わるとこの裏に書くことがあった。また、見積書を書く場合などもあり、筆を使うことが日常茶飯事であったのである。
 A氏が所帯を持ったのは昭和三十年で、その頃は一年の間で、家で朝昼晩の三度の飯を食べたのは三日ほどしかなかったという。それほど仕事の依頼が多かったのである。
 A親方は仲人を七五組もしたという。屋根屋の仕事でいろんなところに行き、見識が広いためと屋根葺きの仕事の時、その家の娘の働きぶりをよく見ていてその人柄をつかむことに長けていたからだという。行動範囲の広い職人であるからこそ担った役割であった。