毎日の料理には味噌や醤油は欠かせぬものであったが、それを仕込むには業者であっても農家の自家製であっても、麹菌(こうじきん)で作った麹が必要であった。醸造業者であれば、その仕事の一環として麹作りから手掛けたが、農家が麹から作ることは難しいことであった。麹作りからする農家もあったが、難しいので農家は麹を買って味噌・醤油を仕込むようになっていった。ちなみに、麹が上手く作れぬので麹を使わず、自然にカビを出して味噌を作る家もあったという。初夏のころに、煮た大豆を樽に入れておくと、熱を加えずとも発酵し始める。麹菌ではないのでいわば腐り掛けた大豆で、臭いも味も旨いとはいえぬが、それでも味噌として食べたというのである。しかし、醤油は麹がなければ仕込めぬものであった。
農家が使う麹は明治期までは、味噌・醤油や酒の醸造業者がその仕込み用と併せて農家用に製造したものを、入手したのであった。農家が自家製の味噌や醤油を仕込むといっても手間もかかり、小作で手間のない家は味噌や醤油を買う家も多く、自家で仕込む家は大正期でも農村で一〇軒に一軒ほどの割合であったという。その程度の需要では、麹製造だけでは生計が立てられぬので、味噌屋や醤油屋などが農家用の麹製造も兼ねており、副業の麹屋が当時は八王子に二軒、町田に四軒あったといわれる。
そうした状況の中で、農村をまわり農家に泊まり込んで麹を製造する職人から始め、麹室(こうじむろ)を持ち需要に応ずるまでになった麹製造業者が大正期に一ノ宮地区に現れ、昭和末期まで営業していた。
初代は明治初期に稲城の矢野口に生まれ、日野の南平の造り酒屋の専属の杜氏職人として麹作りを覚えた。初代の親子は村々を歩いて注文を取り、農家の物置を借りて泊まり込み、その村の五~六軒分の麹を作っては次の村へ廻るという仕事をしていた。当時、親子が麹作りに歩いた地域は、現在の立川市・国分寺市・小平市・武蔵村山市など北多摩であった。そして、一ノ宮地区に麹室を持ったのは二代目で、大正末年ころである。この頃には、麹を買って味噌醤油を作る農家は随分と増えたという。
麹室を建ててからはお得意さんの農家から材料を預かり麹を仕込む委託加工と、材料を仕入れて仕込んだ麹の販売、それに、麦味噌をいくらか仕込んで売るようになる。味噌も作るが、あくまでも麹屋が本業であった。三代目になり第二次大戦後には八南地区(八王子・南多摩地区)で麹組合の加入者は二〇軒ほどとなる。しかし、それら麹屋はそれまでと変わらず、ほとんど醤油屋・味噌屋などのかたわらの麹作りであった。