川久保水車は二代続けて精穀所を営みニュータウン開発を機に仕事をやめた。先代は日野村新井の生まれで同村田村の叔父の元で精穀の仕事を覚えた。一人前になった頃、売り物の水車が出てそれを買って関戸に移ってきた。その子も高等小学校を出るとすぐ家業を手伝った。帰って本を広げると勉強じゃあ飯は食えないと親にしかられ、子どもにもできる米と糠(ぬか)をふるい分ける仕事など細かい仕事をして大きくなったのだという。図3-39は大正九年の川久保水車の小屋見取り図である(川久保清家文書)。川久保水車は乞田川の車橋(くるまばし)そばにあり、三〇〇メートルほど川上から取られた用水路の水を利用して水車を回していた。敷地は一五〇坪で建物の面積は二九坪であった。水車小屋は住宅兼用であり、水路をまたいで住居部分のある搗場(つきば)と製粉場とに分かれていた。水路上に直径九尺ほどの水車が位置し、その回転力が軸を通してそれぞれ搗場と製粉場へ伝わった。
図3-39 川久保水車小屋見取り図(川久保清家文書より)
水は用水から水車の中ほどに落ちるようになっており、水量がそう多くない乞田川ではこのように落差(らくさ)を利用して力を得たのだという。
この水車小屋の搗場には一一基の杵と臼が六基と五基ずつ二列に並んでいた。その周囲は広く空けられ、精米用の品物を積んで置く場所と糠と米を分ける篩(ふるい)や、籾殻と玄米を分ける唐箕(とうみ)などの選別用の道具を使う場所となっていた。住居の部分は四畳半の広さのオカッテ、六畳の広さの畳の間二間に分かれていて一つの畳の間には掘り炬燵(こたつ)が設けてあった。製粉所へは水路上に渡した廊下を通って行くことができた。そこには一組の大きい石臼が置かれ、製粉や麦の挽き割をしていた。