季節によって水の量が異なり一年中、水で苦労した。用水はもともと田へ水を引くためのもので、七月から九月いっぱいは田への用水が優先したから残り水で水車を回すようであった。夏は日常的には水不足で苦労するものの、嵐が来ると今度は大水で苦労しなくてはならなかった。冬は寒さが厳しく水車に氷が張る。そのため夜は水車を止め、朝になると車輪の腕木(うでき)に凍り付いた氷を砕いて落としてから水車を回し始めなくてはならなかった。
夏の大水は特に大変だった。山腹に降った雨が集まり急激に増え、降り始めから一時間くらいで川原が見えなくなるほどの増水となる。これを川が開くと表現した。雨が降り始めて草葺き屋根から落ちる雨垂れが間断なく一続きに落ちるようになると、一時間くらいすると川が開くだろうと言い合った。またアマヤといって雨の降りの強弱や間断の間隔で判断した。
開くと判断されると預かった米や麦の品物が浸水しないように高いところにあげた。常備してあるウマと呼ぶ高さ一メートルほどの台を二つ三つ置きその上に五寸角、長さ八尺の杵を水車からはずし三本ほど並べ、その上にまず麦から積み重ねていった。順に重ねていき一番上に米を積むようにした。麦は水に浸かっても天日で干すとまたもとに戻り使えたが、米は水に浸かると使えなくなった。川が開くのを予測して早くから積み上げても積んだ下の方の麦が水に浸かることはよくあった。その場合は持ち主の農家へ連絡して引き取って乾かしてもらうのが普通だった。そんなときでも災難だったと言葉をかけてくれる程度で農家の人は素直に引き取って乾かしてくれたという。それほど大水と浸水は日常的なことだったのである。
乞田川は大雨が降り始めて一時間ほどで川が開いたが、多摩川は大きい川でしかも関戸地区は下流にあったから一昼夜か二日たって開くくらいだった。乞田川の水が引いて落ちついたころ、多摩川が増水する。すなわち乞田川があがって多摩川が開くといっていた。
大水がきても避難することはできなかった。水が引きはじめるのを待って引き水にごみや泥を持っていってもらうように掃き出す仕事をしないとあとが大変だったからである。近所の人も同じ境遇だから親戚の人に手伝ってもらって後片づけをするのが常だった。また大水がでて一通りの片づけが済んだあと最後に井戸替えをしなくてはならなかった。ごみや泥、さらに汚物も一緒に中に溜まってしまうからである。