食料の自給

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明治十二年の「皇国地誌」によると、当時の村で田が畑よりも多かったのは旧寺方村と旧一之宮村のみであって、旧関戸村と旧乞田(こった)村はほぼ同じ、旧連光寺(れんこうじ)村、旧和田村、旧落合村は田よりも畑の方が多かった。田の少ないところでは、陸稲(おかぼ)を多く作っていたが、田の多い少ないにかかわらず、米だけの白い飯を食べるのは年に何回かの晴れの日だけであり、ふだんの主食は麦飯であった。米や大麦、小麦以外にも粟やモロコシなどの雑穀やさつま芋も重要な食料であった。
 表4-1は、昭和二十五年から平成二年までのおもな作物の栽培戸数の変化をまとめたものである。昭和三十五年と昭和四十五年を比べると、大麦、裸麦の栽培戸数が激減しており、このころから主食が麦飯から白米飯に変わったことがわかる。また、大麦や裸麦は、麦飯のほかにも味噌を作る麹(こうじ)の材料として重要であった。一例をあげれば、四斗樽一本の味噌を作るために大麦二斗を用意しており、大麦をかなりおそくまで栽培していた家は、麹にするためだったという。しかし、多くの家は、味噌を作っていても、手間のかかる麹は家では作らず、麹屋から米麹を買うようになっていった。
表4-1 栽培戸数の変化
作物 年 昭和25年
1950年
(多摩村)
昭和35年
1960年
(多摩村)
昭和45年
1970年
(多摩町)
昭和50年
1975年
(多摩市)
昭和55年
1980年
(多摩市)
昭和60年
1985年
(多摩市)
平成2年
1990年
(多摩市)
水稲 597 377 350 105 78 53 25
陸稲 627 375 172 59 22 17 10
大麦 528 371 8
裸麦 336 113
ビール麦 8 39 9 2
小麦 705 507 178 44 29 26 10
ライ麦 1 3
えん麦 3 1
とうもろこし 91 68 17 17 21 17 10
あわ 529(116反) (17反)4)
もろこし 80(7反) (1反)5)
きび 65(7反) (0反)
ひえ 8
しこくびえ 1
はとむぎ 5
そば 194(18反) (0反)
大豆 5271) 30 93 46 19 27 11
さつまいも 7162) 460 101 108 66 81 34
なたね 2053) 1
※ 表中の作物の名称の表記は出典の記載の通り。
※ 「とうもろこし」と「大豆」は乾燥実のみ。1970年より「そば、ひえ、あわ、とうもろこし、きび、その他の雑穀」で一括されている。空欄は調査項目がないもの。
1)1960年のセンサスでは、1950年の収穫農家は482戸
2)同上140戸で数字が大きく違っている
3) 〃48戸     〃
1)~3)1950年の数字は、1960年の統計書に掲載されている数字といずれも若干違っているが、特に違いの大きいものを記す。
4)~5)戸数の記載がない。
出典 市町村別統計表「1950年世界農業センサス」No.13東京都
   1960年世界農林業センサス「市町村別統計書」No.13東京都
   1970年~1990年世界農林業センサス「東京都統計書」

 粟やモロコシなどの雑穀も、戦後に栽培されていたのは、粳(うるち)ではなく糯(もち)であって、いずれも餅にして食べていたという。それも、昭和三十五年になると激減するのである。大麦や裸麦の栽培戸数の減り方に比べると、陸稲や小麦はわずかではあるが、栽培が続けられている。陸稲は餅につくため、小麦は手打ちうどんにするために栽培していたという家が多い。多摩ニュータウンの開発まで農家を続けていた家では、移転まで陸稲や小麦の栽培は続けていた例が多く、大麦や裸麦が食習慣の変化によって栽培しなくなったのとは違いがみられる。