家の周辺の田畑にも、作物以外に田畑の境に果樹や茶が植えてあった。電気やガスが普及するまでは、燃料は雑木林から得ていた。栗、桜、ホウ、ソロ、欅(けやき)、紅葉、柿などは薪に、櫟(くぬぎ)、楢(なら)、樫は炭に、また桜、ソロ、栗もザク炭になった。山一反あれば炭や薪を一年分用意することができた。炭焼きは上手にできると一釜で炭十五俵、ザク炭三俵ができ、囲炉裏、養蚕、製茶などで使う一年分に十分な量であった。一反の山の木を切ると、また一〇年から一五年の後に薪や炭になった。また、クズハキをして落葉や細枝を集め、堆肥(たいひ)や焚き付けにした。山は、茸や山菜の宝庫でもあった。山からは、ネズミタケやシメジなどがとれ、茸汁を作った。山百合の根も掘ってきて、正月のオセチのきんとんにした。
野や山には、自然の甘味もたくさんあった。グミや木苺、クワドドメなど、疫病を心配する親から叱られることもあったが、子どもたちにとって楽しみであったという。クワドドメは山桑の実のことであるが、山桑には、天蚕が繭を作っていることもあった。天蚕の繭は黄色の美しいものであり、黄色の糸で巾着を作ったりしたという。
クズハキに行くと、木の根元に山栗が埋まっていることがあったが、これは山の鳥が隠しておいたものだといったという。季節はずれの栗は貴重品であり、囲炉裏の灰に埋めて焼いて食べた。
春先には、蓬(よもぎ)や芹(せり)などの草が芽生え、筍が出た。道端のミチシバは、夏になると青々としてくる。これを干してミチシバゾウリにした。道端のやわらかな草は兎(うさぎ)の好物であった。小学生が学校の帰りに摘み、家で飼っている兎のえさにした。
特産物であるメカイ(目籠)の材料の篠も多く産し、また、茅場の茅は屋根材に用いられた。個人持ちの茅場では、二、三反で三〇ダの茅を刈ることができる。自分の家で必要のない年でも、茅はかならず刈って茅場が荒れないようにした。
兎狩りをすることもあった。兎が獲れたときには、肉は骨ごとたたいて参加者で分配した。兎の皮はなめして、耳袋などの防寒具にした。
多摩川以外の河川では、専門に魚を獲る人はいなかったが、フカンドとよばれる淵(ふち)では鰻(うなぎ)や鯉、鮒(ふな)などはたくさん獲れた。田でも泥鰌(どじょう)や田螺(たにし)が獲れた。