味噌豆を煮る

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味噌は、三年味噌といわれたように三年ねかせるとおいしくなるといわれたが、一年おけば食べることができた。家によっては三年待つだけの余裕がないこともあった。一〇人家族くらいだと毎年四斗樽で味噌を仕込んだ。味噌に使う麹は大麦か裸麦の麦麹であって、九月の彼岸過ぎに麹をねかせ、十月末に大豆を煮て味噌に仕込むことが多かった。農作業の都合などで家によっては春先に味噌の仕込みを行った。大正のころの話では、大豆、麦、塩をそれぞれ一斗ずつ混ぜて味噌にしたというが、次第に、麹を増やし、塩を減らすようになった。
 麹を作る麦は蒸籠(せいろう)で蒸かし、筵(むしろ)にあけてさまし、麹箱に入れる。二斗の麦では麹箱が二〇枚になった。麹箱は、初めはぴったりと重ねて積み、熱を出させた。麦が熱くなると、全体を切り混ぜ、繰り返して一週間ほどで麦全体が白くなり、いわゆる「花が咲いた」という状態になり、麹ができあがる。花が咲いてからは、麹箱をずらして空気が入るようにし、味噌を仕込む日まで毎日切り混ぜた。
 味噌を仕込む日は、朝から大釜で大豆を煮た。指でつまんでつぶれるくらいまで煮るが、この豆を味噌豆といい、この日はお茶受けに味噌豆を食べた。近所におすそわけとして配るものであって、当日食べる分として、二、三升の大豆を余分に煮た。よく石川五右衛門が釜茹でになった話をし「石川五右衛門食べるべえ」といいながら味噌豆を食べたという。煮た大豆は木鉢や臼でつき、麹、塩、アメとよばれる大豆の煮汁を加えて樽に入れ、紙蓋をしてミソベヤにねかせた。

写真4-9 大釜で味噌豆を煮る(昭和35年)

 味噌を仕込むときに樽の中に大根、瓜、ごぼうなどの塩漬けを入れ味噌漬けを作った。味噌を食べるときまで漬けておくので、食べるときには飴色に漬かっていておいしかったという。味噌樽にあがってきた上澄みはタマリといい、味噌を仕込んで一年以上たったタマリは醤油のかわりに味つけに用いた。
 醤油も自分の家で作っていた。醤油には小麦の麹を使うが、小麦を炒って麹菌を混ぜ、蒸籠で蒸かした大豆と混ぜ、土間に藁で囲ってねかせた。樽に麹と塩、水を入れ、モロミにし、毎日かきまわした。秋にこのように仕込んで、一年後に醤油絞りをした。
 このような味噌や醤油の仕込みには、大釜用の竈を使って材料を煮た。