女性が普段着として洋服を着るのが定着したのは、戦後になってからである。昭和十七、八年になると、標準服が普及し、女子青年団や婦人会に加入しているくらいの年齢の女性が、着物から上下に分かれた二部式の衣服を身につけるようになった。同じ時期に、モンペがノラギとして普及しはじめ、着物以外のものが受け入れられるようになった。
子どもの服装をみると、昭和七年の多摩尋常高等小学校第一分教場の記念写真では、写っている五五人の児童のすべてが着物であったが、昭和九年のでは、四九人中七名が洋服を着ている。このころから裕福な家や非農家の家の子どもたちが、洋服を着始めたという。
写真4-11 昭和7年第一分教場の子どもたち
写真4-12 昭和9年第一分教場の子どもたち
大正十年生まれの女性によると、その女性が初めて洋服を着たのは、多摩尋常高等小学校の高等科二年のときであったといい、これは昭和十年にあたる。その年の春に二、三人の女子生徒がスカートをはいて登校し始めたのをきっかけに、その夏には二〇人の同級生全員がスカートで通学するようになったという。
しかし、尋常科の児童たちは、まだ着物で通学する方が多く、昭和二十年の記念写真(写真4-13)をみても、着物を着ている子どもが五分の一ほどおり、完全に洋服が子どもたちの普段着になったのは、昭和二十二、三年ころからだという。
写真4-13 多摩第一小学校の子どもたち(昭和20年)
昭和初年、正装の洋服を持っていた人は、公職についているようなごく一部の人だけであった。洋服が一般の人々の生活の中に入ってきたのは、晴れ着ではなく、普段着としてであった。つまり、洋服といっても、専門店で仕立てたり、購入したものではなく、比較的安価な布を買って、家族の女性の手によって縫い上げた服であった。洋裁の知識が乏しいこともあって、簡単な型紙をあてて作ったものが多かった。若い人の中で、普段着に洋服が定着したあとでも、女性では、あらたまった席には着物を着る人が多かった。