戦争中の衣服とモンペ

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多摩市域では、女性が上下に分かれた衣服を着る習慣はなかった。例外として子どもや教師が正装として袴(はかま)をつけることがあったが、そのほかは、普段着、晴れ着とも着物であって、裾(すそ)の長さを紐で調節して動きやすいようにしていた。この地域にモンペが入ってきたのは、昭和十年代である。
 この地域で女性が、上下二部式の衣服を着るようになったのは、標準服の制定がきっかけといってよい。女性の標準服は、昭和十五年の男性を対象とした国民服令の制定にともない、昭和十七年に制定された。「国民服令と国民衣生活」(小川安朗『服装文化』一六五号)によると、女性の標準服には、洋服型の甲号、和服型の乙号、活動衣があった。活動衣は、上下が分かれる二部式であって、下半衣がスラックス型の一号型と、モンペ型の二号型の二種類が制定された。多摩市域では、婦人会などが中心になって下半衣がモンペ型の活動衣が奨励された。
 標準服が制定されると、出征の見送りや集会をはじめ、冠婚葬祭にも標準服を着るようになった。標準服を作るときには、婦人会や女子青年団などで講習会を開いて、作り方を習った。着物をほどいて標準服に作り直したという。このときに作った標準服は、冠婚葬祭にも着ていけるように作ったものであるので、田畑の仕事に着て出ることはなかった。標準服の上下の組み合わせで作ったモンペはノラギにはならなかった。

写真4-15 標準服を着た記念写真


図4-5 女性の標準服

 さて、標準服が定められる以前にもモンペ姿を多摩市域で見かけることもあった。これは、東北地方などほかの地域から働きにきている女性によるものであった。たとえば、落合地区中沢に乳牛を飼っている牧場があって、そこで働いている女性がモンペをはいていた。多摩市域の女性はモンペをはく習慣がなかったので、はじめて見るモンペ姿に驚いたというが、中には自分もはいてみようという人もいた。明治三十七生まれの落合地区出身の女性は、自分もはいてみたいと思い、牧場の女性に型紙を作ってもらって自分でモンペを縫った。実際にはいてみると、動きやすくてとてもよかったという。また、モンペは、紐をといて後ろの部分だけを下ろすことができるので、小用をたすのに便利であった。
 この女性がモンペを作ってはいたのは昭和十二、三年のころだったという。多摩市域の中では、早い方であり、珍しがられたという。モンペへの対応は、人によってまちまちであって、よその出身者がモンペをはいているのを見ても、自分がはくのは抵抗があったという人が多い。しかし、次第にモンペをはく人が増え、戦後は胴回りにゴムが入ったズボン式のものが普及し、なにより動きやすいため、仕事着として定着した。

写真4-16 女性のノラギ(昭和16年ごろ)