女性の着物の袖もタモトにしたが、年齢によって袖丈が変わった。明治三十七年生まれの方の話では娘の場合は一尺五寸から二尺くらいであったという。昭和に入ってからはタモトの袖丈は次第に短くなり、外出着でも一尺六寸くらいで、普段着ではもっと短くした。女性は、このようなタモトの袖の着物で農作業や家事も行う。作業をするのはタモトがじゃまになり、たすきをかける必要があった。たすきは、背中で斜め十文字に交差させ、袖をたくし上げて結んだ。
子どもの着物の袖は、元禄(げんろく)袖にした。大人ものでも、普段着には元禄袖にすることもあった。舟型袖やムキミヤ袖は、ハンテンの袖にすることが多かった。
男性のノラギの袖は、ポーポー袖とよばれる筒袖であった。筒袖は、名前の通り筒状の袖であって、たすきをかける必要はなかった。ムキミヤ袖は、一枚の布を折って縫い合わせる。無駄な部分がなく、経済的な袖であった。袖付けにあきがないので、袖に風がはいらず、筒袖と同じようにたすきをかけなくてよい。
図4-6 袖の種類
タモトの袖にたすき掛けで仕事をしていた女性たちが、たすきをやめるようになったのは、割烹着(かっぽうぎ)が普及してからである。割烹着は、もともとは家事をするときに着物の上に着るものであった。
多摩市域で割烹着が普及したのは、昭和に入ってからのことであった。落合地区出身の方によると、昭和九年にきた兄嫁が、嫁入り道具に割烹着を持ってきて、近所の評判になった。それで、形を真似して自分で縫ってみたという。布地は、一ノ宮地区のうどん屋からメリケン粉の空き袋を買い、それで作った。袋二つで割烹着が一着縫えたという。割烹着のひろまるのは早く、写真4-10は昭和十五年の落合地区であるが割烹着を着た女性が写っている。まだ、モンペははいていないが、手拭いをかぶり、ウデヌキをしているのがわかる。割烹着は、膝あたりまでの長さがあり、着物に合わせた衿の形としていた。
写真4-17 カッポウギ姿で記念写真