晴着の変遷

300 ~ 300
明治や大正のころ、裕福な家の婚礼では、縮緬(ちりめん)の総模様や八掛(はっかけ)模様のようなモヨウとよばれる豪華な着物を着る花嫁もいたが、普通は、もっと簡素な婚礼であった。大正のころの婚礼では、ヒッカエシとよばれる裏地を表地と同じ布を使い、裏地が裾で表に返っている着物を着ることが多かった。大正十五年に結婚した女性によれば、自分でカサネを縫い、婚礼の準備をしたという。カサネとは、裾回しを同じ布を使った二枚重ねの着物のことである。カサネを道中着(どうちゅうぎ)にし、途中の仲人の家でヒッカエシに着替えた。ヒッカエシは、下に着るのは白、上に重ねるのは黒の着物であった。このあと、ヒッカエシの下の白い着物は、喪服として用いた。花嫁は、島田に髪を結い、つのかくしをつけた。
 家によっては、大正のころでも披露宴の間に花嫁の色直しがあって、そこでモヨウの振り袖などに着替えることもあった。このような婚礼は裕福な家に限られたが、昭和になると、紋付きの黒のヒッカエシで婚礼をあげ、披露宴では振り袖を着る花嫁もみられるようになった。昭和八年には多摩村経済更正委員会から「社交儀礼改善に関する申合せ規約」ができ、そこに「宴会ニ於テ新婦ノ色直(着換)ヲ廃スルコト」「婦人招客ハ模様衣ヲ用ヒザルコト」という条項がみられ、このころにはだいぶ晴れ着も華美になっていたことがうかがわれる。昭和十六、七年には、婦人会が中心になって貸し衣装を用意し、花嫁衣装の貸し出しが始まった。これは戦後もしばらく続いたが、家で結婚式を行わなくなったころから使われなくなった。戦争が激しくなったころには、モンペで結婚式をあげることもあった。