昭和十四、五年までは、養蚕がさかんに行われ、シタマユ(下繭)とよばれる汚れた繭や、タマンメエ(玉繭)とよばれる二匹で一つの繭になってしまったものなど、商品価値のない繭で、家族の着物にするために糸を取った。これらの自家用の繭は、乾燥させて繭缶に入れて保存し、農閑期に糸取りをした。
糸取りは、土間に、糸取りの台を組み立てて行う。大きな七厘(しちりん)に炭をおこし、糸取り専用の鍋で煮る。ほぐれたところをミゴ箒(ほうき)で繭の糸口を取出し、五、六個の繭で一本の糸に取った。足踏み式で歯車を回し、糸枠に巻き取った。糸取りをする者は、鍋の中の糸を見守り、糸が終わりそうになると別の繭から糸口を取って加えてゆく。繭が終わるころには糸を切り、蛹(さなぎ)を取り出す。この蛹は、魚捕りの餌にした。足踏み式ではなく、手回しの座繰(ざぐり)に巻き取ることもあった。結婚をひかえた娘や兵隊検査の年令の青年がいる家では、子どもの晴れ着を作るために糸の準備をすることもあった。
このようにして取った糸は、枠ごと揚げ場へ持っていき、揚げ枠に巻取り、糸をはずす。揚げ場では動力に水車を使っていた。生糸に仕上がるとヨリヤという専門業者で撚(よ)りをかけてもらう。染色も業者に頼むことが多かったようである。
繭からは糸ばかりではなく、真綿にすることもあった。真綿は、繭を鍋で煮てほぐれてきたところを水で晒し、枠にかける。数個の繭で一枚の真綿ができ、布団や綿入れなどに用いた。