かつての生活では着物は家族の中の女性の手によって縫うのが当たり前とされていた。結婚してから困らないように、嫁入りの前に裁縫を習い、ふだんの着物くらいは縫えるようになるのが女性にとって一人前だともいわれていた。昭和になると、多摩村青年学校で女性に裁縫を教えた。高等科を卒業したあと、正月から五月の初めころまでの農閑期に通った。三年から五年間くらい通い、自分の嫁入り支度をしたものだという。大正生まれの女性は、このような青年学校で裁縫を覚えた人が多い。もう少し前の明治三十年代生まれの女性の中には、裁縫ができないと嫁にいけないといい農閑期に裁縫を習いに行ったという。しかし、早くに奉公に出て裁縫を習う機会がないまま結婚し、まったく裁縫を習ったことはないという人もいた。裁縫の知識はないが、家族の着物を縫わなければならないので、着物を縫い返すときにほどきながらどのように縫ってあるかを見て自分で覚えたという。奉公先によっては、農閑期に裁縫を教え、嫁入り支度を整えてくれるようなところもあったという。
昭和二十年代以降は、着物にかわって洋服がひろまってきたが、青年団や婦人会で講習会を行い、子ども服や簡単な形の洋服などを教えた。昭和三十年代までは、このような講習会で基礎を覚え、婦人雑誌などを参考に子どもの服を縫うことがひろく行われていた。
写真4-22 婦人会の裁縫(昭和48年)