ここでは、明治三十七年生まれのAさん、三十九年生まれBさんの経験をもとに主食の変遷をおってみたい。AさんやBさんは子どものころにもっとも多く食べたのは、麦飯とミトオリマゼであったという。Aさんたちが当時食べた麦飯は、大麦か裸麦を自分の家の石臼で割ったヒキワリを混ぜた麦飯のことである。
ミトオリマゼは、米とヒキワリに粳(うるち)の粟を混ぜて炊いたご飯である。三種類の穀物を混ぜるのでミトオリマゼ(三通り混ぜ)という。ミトオリマゼのそれぞれの混合は、ヒキワリが七に対して米が三、それに粟を一混ぜるという。「昔はミトオリマゼが食って通れば一人前の農家」といわれたともいう。米、麦、粟の収穫時期はそれぞれ違っている。小さな農家では、一年間家族が食べるだけの穀物を貯えておくのはむずかしく、米が収穫できれば米を食べ、麦が収穫できれば麦を食べるという生活を余儀なくされる。つまり、端境期であっても三種類もの穀物を食べることができる農家はある程度の耕地面積を持つ一人前の農家ということをいっているのである。このようなミトオリマゼのご飯は、大正初年あたりまで食べたという。
Aさんたちが子どものころに食べたものに麦をヒキワリにしないで、丸のまま煮たものがあった。エンバクとかバクメシなどとよんでいた。丸麦は火の通りが悪いので、一昼夜かけて煮る。「ぐずぐず煮ると梅の花が咲いたようにえむ(割れる)」という。麦の種類にえん麦があるが、ここでAさんのいうエンバクは、割れるという意味でのエンバクである。エンバクには小豆を少し入れて煮ると赤く染まり、味噌で味をつけて食べたという。オトロ(とろろ)をかけて食べたこともあったという。時間と手間がかかるので毎日作るものではなかったようである。
麦飯は多摩ニュータウン開発のころまで食べていたが、米と麦の割合は次第に米の方が多くなり、最後の時期は麦はほんの一握り混ぜるくらいであった。現在でも健康のために麦などの雑穀をを混ぜて炊く家はあるが、これは選択の幅がひろがった結果であって、かつての麦飯とは違っている。
Aさんたちが結婚をして子どもを育てるころは、ヒキワリが七、米が三くらいに混ぜていたという。関戸地区で製粉業を営んでいた方によると、多摩市域でヒキワリからオシムギに変わったのは昭和初年であるという。ヒキワリが自分の家の石臼で割るのに対し、オシムギは圧力をかけて平たくするため、精麦用の機械が必要であった。機械のある製粉所や共同水車などでオシムギにする作業をした。ヒキワリに比べるとオシムギの方が口あたりがなめらかで食感がよかったので、昭和十年代には多くの家でオシムギにかえたようである。しかし、ヒキワリの方が腹持ちがよいともいわれ、戦後もヒキワリを食べていた家もあった。米と麦の混合率は次第に米の方が多くなり、昭和十年代には、半々から麦が三に米が七というように米と麦の割合が逆転した。