間食の呼称には、東京周辺でもひろく使われているコビルということばもあるが、多摩市域では、昼食前にしのぎに食事をすることをいい、シノギともいったという。農繁期にオチャを食べても昼食までもたないようなときに、軽く麦飯などを食べることがあり、それをコビルとよんでいた。
食事の時間は、季節やその日の仕事によって変わった。日が長く農繁期でもある夏の間は、アサクサとよばれる草刈りに出るので、朝食が早く、五時ころには食べた。しかも田畑の仕事や養蚕が忙しいため、労働量が多く、午前のオチャとして九時半に握り飯のような食事に準ずるような食物をとった。それでも空腹となり、昼飯前の一一時に軽くコビルをとることもあった。夕食は日が暮れてからであるから、時間は七時すぎになる。昼食から夕食までは間が長いので、午後のオコジュウも腹持ちのよいものを食べた。
日中、家から離れた山や田畑に出ているときには、間食や昼食に家には戻らず、田畑で食べることも多かった。ノラ弁当と称し、ご飯はオヒツごと、煮物のようなおかずは鍋ごと運び、戸外に茣蓙を敷いて食べた。
冬の間は、朝食がおそく六時半から七時ころになる。午前中はそれほど空腹にはならないので、一〇時ころに茶と漬物程度でオチャをすます。オコジュウも食事代わりになるようなものではなく、有り合わせのものですませた。日暮れが早いので夕食も六時ころと早いが、よなべ仕事をするので、夜の一〇時ころに夜食を食べることもあった。
三回の食事とも同じように考えていたわけではなく、温かな食事をとるのは朝食と夕食の二回が多かった。家族がみな田畑に出るような場合は、昼に家に戻ってきても火をおこすことはなかった。そのかわり、朝炊いたご飯はオヒツに移し、藁で編んだオヒツ入れに入れて保温をした。鉄瓶には、昼の分もたっぷりと湯を沸かしておき、その湯ざましを飲んだという。
写真4-32 野良での食事(昭和40年ごろ)