主屋の中は一段高くなった板敷や畳を敷いた居室部分と、土間の部分とに分かれており、ごく一般的な主屋の中は図4-22のようになっていた。通常の出入りは土間の南面した側(図4-22の①。以下①~⑦は図4-22のもの)からし、ここはトンボグチなどと呼ばれ、クグリドのついたオオド(大戸)が設けられていた。オオドは雨天や夜には閉められたが、昼には家人のいるいないにかかわらず開け放たれたままのことが多かったという。トンボグチの反対側、すなわち土間の北面した側にも小さな出入口があり、ここは勝手口であった。このほか、かつての名主をつとめたような有力な家々には、トンボグチとは別に、板敷きや畳敷きの部分に直結する式台つきの玄関が設けられていた。主屋は、一般に東西に長い長方形をしており、入り口から土間に入った場合に、図4-22のように居室部分が左手に配置されている右勝手型の民家が圧倒的に多く、市域には土間を左手、居室部分を右手に配置する左勝手型の家は少なかった。
写真4-56 トンボグチ
図4-22 間取りの例
トンボグチから入った土間の部分(②)はダイドコロ・ダイドコと呼ばれ、奥の方には下の炉が設けられ、その近くに薪など炉にくべる燃し物が置かれていた。奥の方にはまた、流しや水瓶などもあり、ここで炊事も行われていた(炊事は③の部分で行う家も多かった)。土間に風呂桶の据えられている家も少なくなかった。このほか、土間の重要な機能として、雨天時や冬や夜に、脱穀・籾(もみ)摺りや縄ないなどをする作業場としての役割があった。そのためにかつて土間は広くとられていたのである。図4-22のように、土間に接して牛馬を飼うウマヤや、漬物を保存するミソベヤを設けている家も多かったが、牛馬や漬物のために別棟の小屋を建てている家もあった。
養蚕の盛んなころには、養蚕の時期になると主屋全体が蚕室の役割もはたしていた。
茅葺きの主屋の屋根型は、入母屋(いりもや)型と寄棟(よせむね)型が多かった。養蚕のため二階(もしくは屋根裏)に採光を得たり通風をよくするために、妻側の下端を切り落とした兜造りの屋根も残っていた。兜(かぶと)造りには、入母屋型の下端を切り落とした入母屋系兜造りと、寄棟型の下端を切り落とした寄棟系兜造りとがあった。なお、屋根葺きは屋根屋と呼ぶ職人が中心になって行ったが、その手伝いにはクミアイの家々がユイ仕事として協力した(協力のしかたについては第二章第三節3互助協同の労働を参照)。
写真4-57 入母屋の民家
写真4-58 寄棟の民家
一方、主屋はその広さに比して収納スペースが極端に小さかったので、付属屋としての土蔵もしくは物置は欠かせなかった。これは、貴重品を火災から守るためにも必要な建物である。土蔵・物置には、平素は用いない衣類・蒲団や人寄せに必要な食器類がしまわれ、一階を穀物置場、二階を衣類や食器類の置場とした土蔵もあった。土蔵にではなく、別に穀倉を設けてそこにに穀物や保存食品をしまう例も多かった。味噌・醤油や漬物類をしまう味噌倉を持つ家もあった。
写真4-59 土蔵
堆肥を作る際に、しばらく乾燥させておく小屋をシモヤといった。堆肥は人畜の糞とクズッパ(屑葉、落葉のこと)を混ぜて作ったが、それらが雨ざらしなったりそこから臭気がもれないように、堆肥の上にトタンや茅製品を屋根として斜めにかけた簡単なもので間にあわせることもあれば、小屋を作って覆う場合もあった。
このほか付属屋には、独立した蚕室、薪をしまう木小屋などがあった。木小屋は万一の場合を考えて他の建物から遠ざけ、そこには薪のほか、製炭後のまだ完全に冷めきっていない炭を入れておくこともあった。なお、薪は主屋や物置の軒下に積み上げたり、主屋の縁側の下に保存したりもしていた。
便所には、カミオカとかウエノベンジョと呼ばれる主屋内の便所もあったが、これとは別に独立した外便所も一般に設けられていた。外便所は、しばしばシタノベンジョとかチョウツバと呼ばれていた。
写真4-60 外便所
写真4-61 外便所の中
風呂は、主屋内の土間の一角に風呂桶を据えた家と、外風呂として独立した風呂小屋を設けた家とがあった。