炉と竈

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炉はイロリ・ユルリまたはヒジロなどと呼ばれ、ダイドコロ(土間)やカッテの板の間に設けられて、暖房や煮炊きに使用されていた。ダイドコロの囲炉裏(いろり)は土間の部分を掘り下げて作り、土間囲炉裏と呼ばれていた。カッテの囲炉裏は、のちに炬燵(こたつ)に改造されていった。このほか、養蚕をしていたころにはザシキの中央に蚕室保温用の炉が切ってあった(ザシキが蚕室にあてられていたためである)。
 囲炉裏の座順は、上座に戸主が坐るくらいで、特に厳格なきまりはなかったようである。カッテの囲炉裏は家族の日常生活の中心の場であり、心やすい客を迎え入れたりするところでもあった。来客があると火を燃やすのがご馳走と考えられ、「ユルリバタであたってきなよ(あたっていきなよ)」などと声をかけ、囲炉裏を囲んで談笑したという。囲炉裏にはいつも鉄瓶で湯を沸かしていたが、夜は、オカマサマに休んでもらうためといって、自在鉤(じざいかぎ)から鉄瓶をはずし、火種に灰を被せて直接その上に鉄瓶を置いたという。そうすると火種が残っているので湯は朝までさめなかった。また、囲炉裏の中は常時きれいにしておくよう心がけていた。

写真4-65 土間囲炉裏とオカマサマ

 竃はヘッツイ・カマドなどと呼ばれ、ダイドコロ(土間)に据えられていて、飯を炊いたり蒸かしものをするときに使用された。竃は山の赤土とツタ(細かく切った藁)を練って固めたドロベッツイ(土竃)で、二種類あった。一つは日常の煮炊き用の竃で、炊き口が一口や二口のものがあり、大きい口のには三~五升釜、小さいのには一升釜をかけた。もう一つは大竃で、大釜をかけて湯を沸かし、餅つきや赤飯を作るときなどの糯米や芋を蒸かすのに用いた。大竃は味噌作りや醤油作りにも用いた。
 竃の近くには火伏せの神である三宝荒神が祀られており、オカマサマと呼ばれていた。昭和二十年代、三十年代に囲炉裏が少しずつ炬燵に変わっていったように、竃もドロベッツイが廃され、次第にタイル張りやレンガづくりの市販の改良竃・徳用竃が使用されるようになった。さらにはコンロが使用されるようになったり電気釜・ガス釜が普及してくると、竃はほとんど用いられなくなっていった。