B家の例

356 ~ 359
図4-25・26は旧乞田地区の農家B家のものである。規模としては、市域の標準的な伝統民家とみてよいだろう。ただ、昭和五十四年の区画整理事業で取り壊したため、図4-25・26の形は現存していない。
 この家では、南に山があるために主屋の前面が山陰になり、そのため、脱穀などの農作業は日の当たる主屋の西側で行った。したがって主屋の西側の場所をニワと呼んでいた。主屋の裏手は北側に当たり、ここには風除けのカシグネとして樫の木が五本植えてあった。ウラノミチに沿っては垣根として茶が栽培されていた。豚小屋のあたりが鬼門で、鬼門除けとしてクチナシを植え、屋敷の八方には少しずつ柊も植えてあった。東南の隅の土手に広さ二〇坪ぐらいの穴倉があり、桑を貯蔵するのに用いていた。

図4-25 B家の屋敷取り

 なお、屋敷地には小祠はなく、メエヤマに稲荷と、氏神としての八幡が祀られていた。図4-26は主屋の平面図で、民家建築の研究者によって十八世紀中ごろの建築と推定されている。縁側や厩(うまや)の部分を除いた規模は桁行七間、梁行三・五間で、屋根は茅葺きの寄棟造りだった。間取りは四間取り型だったが、間仕切りの手法から広間三間取り型に復元ができるようだった。

図4-26 B家の主屋の間取り

 トンボグチとは別に、建て増しされた厩にもクグリドのついた一間のオオドがあり、この出入り口をイッケンドと呼んでいた。厩と呼んではいても、大正末期にはもう馬は飼われておらず、ここは物置や納戸として使われていた。そのため、モノオキと呼ばれることが多くなった。縁側は内縁だった。
 食事はオカッテでとった。家族団欒の場もオカッテで、真ん中に半畳ほどの大きさの掘り炬燵がある。また、ザシキ中央には蚕用の炉が切ってあった。ダイドコに三尺に四・五尺の炉(イロリ・ヒジロ)が掘られ、中に土足のまま足を入れられるようになっており、その周囲三か所に木の長椅子が置かれ、座蒲団が敷かれていた。寒い時期に来客があると、「囲炉裏の中にふんごみなさいよ(足を入れなさいよ)」などとすすめたという。煮炊きはこの炉で行い、夏でも火を絶やすことはなかったという。竈はダイドコの奥にあり、釜をかける口は二つあった。
 風呂は外風呂、便所は外便所と内便所の二つがあった。外便所はチョウツバ、内便所はベンジョと呼ばれていた。
 あらたまった客はデイに通すが、普段は縁側やコエンで応対し、寒い時期には炉へと招いた。結婚のヒロメ(披露宴)は、デイとザシキの二室をつなげて行われた。花嫁はトンボグチから入り、ダイドコからオカッテに上がり、ヘヤを通ってデイに入り、新郎と並んで床の間を背にして坐った。葬式もデイとザシキをつなげて行われた。棺はデイに置かれ、縁側から外へ出した。
 なお、この家は大規模な養蚕農家で、最盛期にはダイドコ・ザシキ・カッテ・デイ・ヘヤがすべて蚕室になってしまい、家人は廊下や蚕の棚の間に寝るようであったという。家全体が作業空間になったわけである。