旧関戸村の鎮守である。熊野神社の氏子は明治三十三年の「社寺明細帳」(明治三十三年に多摩村役場が村内の神社寺院の明細を書き記したもの。以下引用する「社寺明細帳」とはすべてこの資料である。)では五九戸とある。現在では関戸自治会域に居住するものすべてが、氏子としての資格を持つものとされ、氏子数の正式把握はなされていない。神社には正規の規約に基づく奉賛会などの氏子組織はない。しかし、慣例として古くからの家々と比較的古い移住者の中から、地域に偏りなく二〇名ないし三〇名の神社委員が、協議あるいは氏子総代の指名により選出され、さらにその中より氏子総代が三名選出されている。このほか祭礼時に諸役を担う祭礼委員が毎年二〇名ほど指名されている。
氏子会のない熊野神社では、経常的な運営維持費や祭礼費の徴収は一切行なわれていない。しかし、祭礼時になると、住民からの奉納金のほかに関戸自治会から協力金が支出され、祭礼その他の費用に当てられる。このことから、熊野神社の祭祀が関戸自治会によって継承されていることがうかがえる。
祭日は、昭和三十七年までは九月二十九日、三十八年からは九月第二日曜とその前日の二日間となっている。昭和三十年代半ばまでは神輿を出したが、交通が激しくなり式典のみの祭りになった。しかし、昭和五十三年には大人神輿を新調し、それ以降神輿の渡御を再開している。また、この渡御には大太鼓、子供神輿と祭りばやしの山車(だし)も連なり、たいへん賑やかなものとなっている。
写真5-1 熊野神社の祭礼
こうした祭りの規模内容は、例年三月と七月に開催される神社委員会であらましが決定され、八月中に自治会回覧板にて周知される。八月の最終日曜日には祭りの準備として境内の草刈りと清掃が行われる。
祭りの宵宮の土曜日には、境内の飾り付けや旧鎌倉街道の一部から大栗橋商店会の一角に注連縄(しめなわ)を長く張り巡らす。また、戦前には各家で作っていた地口行灯(じぐちあんどん)を、提灯屋の既成品の調達ではあるものの昭和五十年ころより復活し、五〇メートル間隔で神輿の渡御する鎌倉街道の電柱に二〇~三〇個飾りつけている。
祭礼当日の午後からの神輿の渡御には地元神輿愛好会の「関戸睦(せきどむつみ)」が中心となる。渡御には交流のある八王子市、府中市、日野市、立川市、世田谷区、山梨県上野原町などの愛好会の応援がある。また、子供神輿も参加し、三〇〇~四〇〇個の菓子袋が子どもたちに配られている。渡御の列には大太鼓(「昭和三年三月 御大典記念関戸氏子中」の銘)のほか、関戸囃子保存会(昭和五十一年に、小金井市貫井(ぬくい)より手ほどきを受けて発足した目黒流の祭り囃子である)による祭り囃子と面踊りの山車も加わり大変賑やかなものとなっている。渡御の途中五か所ほどの接待所にて地元の有志による飲物や握り飯が振舞われている。
現在、祭礼時の神輿の渡御に力を発揮するのが、関戸睦である。昭和四十年代後半の神輿ブームの中、神輿渡御のない地元の祭りに飽き足りないと思った、幼なじみでかつ関戸の消防団員でもあった若手が中心となり一〇数名で発足した。関戸睦の初めは他地区の祭りの神輿を担ぎに出向いていた。その後、第一回多摩市民祭に昭和五年作の古い神輿を担ぎ出したのを契機に、昭和五十三年に在来家の寄付で大人神輿が新調され、以後毎年、神輿の渡御を行うようになっている。現在、四〇名ほどが関戸睦の半纏(はんてん)を持つ会員になっているが、交流のある愛好会が所属する神社の祭礼の神輿を日常的に担ぎに出かけるのは、若手を中心に二〇名ほどである。
なお、関戸睦は祭礼時には、近隣神輿愛好会からのご祝儀を独自に受け取ることを神社の役員会から許されている。そこで、渡御が終了した後、そのご祝儀を元手に応援に駆けつけてくれた神輿愛好会の担ぎ手約一四〇~一五〇人に対し、独自で食事と酒を振舞いねぎらっている。
睦会では祭礼のほか、昭和六十年ころより大晦日の晩から初詣客が安心して参詣できるよう、神社境内に篝(かがり)火を焚き、甘酒を振舞い、太鼓を打たせるようになった。客が途絶える三時ころには火の始末をし、終了する。
熊野神社境内には稲荷社があり、二月初午に近隣の人々が色紙で作った幟をあげる。