春日神社

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本村の氏神は春日神社であって、祭神は、大日孁尊(おおひるめのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、武甕槌命(たけみかつちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)である。
境内末社として、稲荷社(個人持ちの社が祀られたもの)のほか、境外末社として、若宮八幡神社と神明社が祀られている。神明社の敷地内には昭和三十一年現中央病院敷地より病院建設に際して移転した山王社と嘉永六年旧家三軒にて祀り始められた正一位蓮光稲荷社の石祠も祀られている。
 氏子は明治三十三年の「社寺明細帳」では五一名とある。昭和五十六年八月一日に奉賛会が発足し、平成八年現在一八五戸が会員となり、年間一二〇〇円の神社運営費を納入している。氏子域は連光寺本村自治会(六七五戸)・連光寺向ノ岡自治会(一九八戸)・みどり会(一〇八戸)の三自治会に当たる。奉賛会員は本村自治会域を中心とし、他の自治会域からも数は少ないが加入がある。全奉賛会員中の三分の一の約六〇戸が在来家とその分家で、残りは神社に関心をもつ新しい住民により構成されている。
 本村は古くからある家々の居住地域を上の街道、西村、新田と三区分し、昔から講中と呼んでいる。氏子役員はこの講中から五~六名ずつ合計一〇数名の氏子役員が選出されるが、今日では新田地区に向ノ岡自治会が付属するようになり、向ノ岡からも新田の役員が選出されるようになっている。
 神社には三名の氏子総代がいるが、いずれも現在の奉賛会の役員と重複して、その任に当たっている。
 祭日は、昭和三十七年まで九月二十九日で、三十八年以降は九月第二日曜を本祭り、前日が宵宮で、翌日をハチアライ(鉢洗い)とする。祭りの準備は七月末に役員会が開催され、規模と内容が決定される。
 祭りを担当するのが年番である。年番は講中の役員が三年に一度ずつ担当することになる。祭りの一週間前に春日神社境内と境外末社である八幡神社と神明社の清掃をする。分担は西村が本社、新田が八幡社、上の街道が神明社と例年決まっている。年番の役員は、会計・式典・神輿・余興などの責任者となる。
 当社の大人神輿は明治三年の製作で、市内でも最も古いものである。昭和初期からの渡御および祭りの様子は表5-2のとおりである。
表5-2 神輿渡御その他祭礼事項年表
(土方金一郎・土方近司両氏の記録、および補足調査より作成)
明治3年 大人神輿三十六軒にて新調。
明治11年 太鼓新調
明治30年 子供神輿新調。
明治38年 大人神輿塗替え。
明治39年 日露戦争出征の村内兵士八名により凱旋感謝として日本刀奉納。
昭和10年 大人神輿・子供神輿とも村内全域を渡御。
昭和11年 神輿渡御同上 この年歌舞伎上演、厚木の柿之助一座、演目(千代萩・曽我)。
昭和12年 大人神輿・子供神輿とも八幡社と神明社への渡御のみ、以後二十一年まで毎年この規模となる。
昭和13年 太鼓台新調。
昭和22年 大人神輿・子供神輿村内全域を渡御、以後昭和二十八年まで村内全域を渡御。
昭和27年 この年歌舞伎上演、座間の蛭間座大一座。
昭和29年 大人神輿・子供神輿とも八幡社と神明社への渡御のみ、以後三十一年まで毎年この規模となる。
昭和32年 大人神輿出ず、子供神輿のみ村内渡御、以後四十六年まで毎年この規模となる。このころより連光寺青年男団自然消滅。
昭和34年 川崎街道に直面し危険なため神社祭礼の幟立て廃止となる。
昭和38年 多摩村内PTAの申し合わせにより、祭礼日が分散していては児童生徒が落ち着かないため、村内の祭礼日を九月第二日曜日と統一。
昭和44年 交通事情の悪化のため子供神輿の渡御中止、以後昭和五十年復活まで中断。
昭和48年 消防団第一分団の団員を中心に十七年ぶりに大人神輿の地域全域の渡御を復活した。以後平成八年現在まで八幡社・神明社および地域全域の渡御を継続した(ただし、昭和五十七年・平成三年は台風のため渡御を中止した)。
昭和49年 子供神輿が寄贈される(港区麻布宮村町会の子供神輿新調に際して、先代の子供神輿を地区内にある多摩みゆき幼稚園が受け、それを連光寺地区の子供神輿として使用することになった)、神輿担ぎの揃いの半纏を新調。
昭和50年 子供神輿復活、第一回多摩市民祭に大人神輿参加(以後昭和五十五年まで参加)。
昭和51年 連光寺本村はやし連結成。
昭和52年 大人神輿・子供神輿修理、太鼓張り替え修理、太鼓台車修理、この年より日露戦争凱旋記念兵士八名の子孫による奉納刀の保管場所から本殿までの太刀運びの儀式が始まる。
昭和54年 宵宮にはやし連主催によるカラオケ大会が始まる、昭和六十年より神輿連の受け持ちとなる。
昭和56年 境内に神輿庫落成(六月)、春日神社奉賛会発会(八月一日)。
昭和57年 太鼓張り替え修理。
平成2年 祭礼用万灯作り開始、以後毎年万灯は継続作成、この年より旧家富澤家への神輿渡御がなくなる。
平成3年 この年より旧家小金家への神輿渡御がなくなる。

 昭和四十八年には、昭和三十一年の祭礼以来中断していた大人神輿の渡御を復活、五十年には子供神輿も復活した。また、囃子連が昭和五十一年に結成された。五十二年、大人・子供両神輿と大太鼓を修理した。五十四年からは境内の囃子連の櫓(やぐら)を使ってカラオケ大会を宵宮に開催するようになった。
 当社では式典に先立ち「ササラ突(つ)き」と呼ぶ道行(みちゆき)行事が行われる。これは神主が村内の休息所(かつては旧名主家の富澤家、現在は地区集会所)から境内の社殿まで参内する道中を清めるもので、道行する神主の先払い役に四〇名ほどの成人男子が、道の左右に分かれて列を作り、手に持つササラと呼ぶ身の丈ほどの新しい真竹の竿で道を叩き進行するという習わしである。また、式典が終了し、神主が再び休息所に戻るときも、参内時と同様にササラで道を清めてお帰しする習わしとなっている。

写真5-4 春日神社祭礼のササラ突き

 神輿の巡行は午後一時に春日神社を出発し、境外末社の八幡神社、神明社、地区内での旧家である小金家と富澤家を巡行し、午後六時に神社に戻るのを長年の慣例としてきた。しかし、巡行経路は変わらないものの平成二年には富澤家、三年には小金家への巡行を省略するようになり、今日にいたっている。

写真5-5 春日神社の祭礼