白山神社

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祭神は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)である。
連光寺地区東部を氏子域とするが、規約に基づく正式な氏子組織はなく、経常的な神社の維持運営費の徴収は行われていないが、慣習的に一〇八戸から祭典費の徴収がなされている。
 戦争中は旧家を中心として四三戸を、戦後しばらくしてからは四八~四九戸を本来の氏子として意識していた。しかし、昭和六十年ころには、これらの元来の氏子のほか、新住民のうち祭礼費用を負担するもの六〇戸も氏子に準じて考えらるようになり、平成八年時点では、旧氏子と新住民合わせて一〇八戸が祭典費を納入している。
 神社には古くは宮世話人と呼んだ三名の氏子総代がいた。総代は東部を伝統的に細区分する上(カミ)・中(ナカ)・下(シモ)の三講中のそれぞれから一名ずつ選出されることが多かったが、現在では必ずしも地域に縛られることなく選出されている。総代の任期は三年で祭りや神社の管理に当たった。
 祭礼日は、昭和三十七年までは九月二十九日、三十八年からは九月第二日曜日とし、その前後を宵宮と鉢洗いとしている。毎年の祭礼時には一五~一六軒ずつ家並順に分けて当番とする。これによって旧家は三年に一度当番になる仕組みである。当番の仕事は式典や会計などで社務所に詰める灯明番(灯籠番ともいう)、曳(ひき)太鼓係、子ども神輿係などが主なもので、それぞれに五~六名ずつで当たってきた。
 祭りの準備は八月の盆の終了後に開かれる旧家を中心とした会合から始まる。会合では見込まれる予算に併せて一〇八戸の寄付徴収額が決定される。この寄付金額は各自の地域における公的私的な役職や地位、あるいは本分家や家格に従い、暗黙の内に認識され決まり、特に異論の出ることもない。
 近年の祭礼予算は、ほぼ五〇万円程度で挙行されており、寄付金額は最高一万円から千円までさまざまな層に分かれている。この一〇八軒には祭礼時には、神社の神札が配られる。
 祭礼には昭和十年製作の子供神輿と同十二年購入の太鼓を巡行させている。巡行には、昭和初年に地元に生まれた人々で構成される東友会と呼ぶ旅行愛好会が面倒を見るのが慣例となっている。境内に掛けられた仮設舞台では地元の囃子連が祭りばやしを披露するほか、昭和六十年ころより宵宮にカラオケ大会を実施している。境内には稲城市の香具師(やし)によるおもちゃ屋の屋台が二軒ほど出されるのを通例としている。

写真5-8 白山神社の祭礼

 なお、戦前の白山神社の祭礼に男の子は子供神輿を担いだ。その時は白丁(はくちょう)姿となるほか、何人かは神輿の渡御するその前を背丈ほどのササラと呼ぶ竹を持ち向き合い、金棒に続いて地面を叩いて道を清めることを行った。
 東部では、祀り手の範囲や役員を全く同じものとして白山神社のほかに八坂神社を祀っている。そして、昭和三十七年以前には七月十五日を天王祭として、旧家の全戸が参列しての祭礼が行われていた。祭礼の準備・費用の出し方は白山神社と同様に段階別に寄付額を各戸毎に割り付けた。祭礼には子供神輿や曳太鼓も巡行した。昭和三十八年以降は七月の祭礼を廃止し、白山神社の祭礼日である九月第二日曜日に、白山神社の式典前に、神主・総代・当番が八坂神社に出向き式典を執り行うようになっている。
 東部では、平成四年より、白山神社の社殿および社務所・境内末社さらに八坂神社の社殿の再建事業を開始し、平成七年五月に落成式を挙行した。この事業は昭和六十二年ごろより話題が出始め、平成四年より本格的に寄付事業が推進された。事業にはまず、委員長と副委員長が選出され、その後正副の委員長が自らも含めて在来家の中より二八名の再建委員を指名し、その上で在来家を含め継続して例年の祭典費の出費に応じてくれていたもの一〇八名に呼び掛けを行い、さらに地縁のあるもの、あるいは他地域に移った血縁者など二百数十名の地縁血縁者からも寄付を募り、最終的には三七〇余名の協力資金にて実現した。
 再建事業中の祭礼は、それまでの当番制を廃して再建委員が当番役を分担した。平成八年以降は、再建委員は神社運営委員となり運営に携わることになっている。
 境内末社としては、稲荷社と第六天社があるが、両社とも由緒は特に語られず、稲荷社の初午に際して四~五本五色の紙の幟が奉納される程度で、特別な祭礼は両社とも無い。