4 貝取地区

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 近世の村を引継いだ貝取地区は、鎌倉街道沿いの現在の京王相模原線・小田急多摩線の永山駅の南西部に当たり、現住居表示では貝取一~四丁目、豊ケ丘の一部、永山の一部と貝取となっている。昭和三十年代まではその大部分が山林で、集落小字は関戸から現在の町田市小野路にいたる鎌倉街道に沿った谷戸と、その西方の谷戸の二か所に大きく別れ、他に現在の多摩市役所近辺の飛び地にわずかの人家が存在していた。戸数は江戸時代後期に四〇戸(『新編武蔵風土記稿』)、明治十二年に四五戸(『皇国地誌』)、昭和三十年に四七戸と大きな変化はなかったが、同四十年以後の開発により昭和六十年にはニュータウン地区も含めて居住は三〇〇〇戸を越えている。
 貝取地区は、西方の谷戸の集落を一般に貝取、鎌倉街道沿いの集落を瓜生(うりゅう)と呼び、それぞれ伝統的な近隣自治組織である講中を構成してきた。現在、講中の機能は皆無となったが、講中の地域範囲は地域の自治会に継承され、貝取講中は貝取第一自治会(七二戸)、瓜生講中は瓜生自治会(九八戸)となっている。そして平成八年現在、貝取講中(貝取第一自治会)には貝取神社、瓜生講中(瓜生自治会)には御嶽神社があり、それぞれ在来家を中心とした氏子によって祀られている。
 ところで、貝取地区全体は、乞田地区で記述するように、江戸時代から昭和二十四年まで乞田の八幡神社の氏子となっていた。しかし、その祭祀に関しては貝取・瓜生の講中とも、年番が祭典や付き合いに出向く程度であったとの伝承があるように、八幡神社を貝取地区の氏神とする意識は乏しかった。むしろ、貝取・瓜生とも後述の通り江戸時代から自地域内に、別途に神社を祀っており、乞田の八幡神社とは別の氏子と氏神意識を持って祭祀を執り行ってきた。