貝取神社

385 ~ 387
祭神は、吾妻神社(弟橘媛(おとたちばなひめ))、八幡宮(応神天皇(おうじんてんのう))、牛頭天王社(須佐之男命(すさのおのみこと))の三神を相殿で祀る。
 当社は、多摩ニュータウン開発のため貝取講中に個々に祀られていた三社の社殿と境内地を整理し、昭和四十九年に現在地に新たに「貝取神社」と名づけたものである。新築された社殿の中には、向かって右に吾妻神社、中央に八幡宮、左に牛頭(ごず)天王の三社が祀られている。
 貝取講中は一九軒で構成され、それがさらに一二軒の上組と七軒の下組に分かれていた。貝取神社になる前、八幡宮は新倉姓を主とした上組一二軒で祀り、吾妻神社は伊野姓を主とした下組七軒で祀っていた。祭日は二社ともに九月十五日(昭和三十八年以後は九月第二日曜日となる)で、個々の神社でクミごとに神主抜きの参拝をしたあと、両社の氏子全員すなわち貝取講中全員が合同してオミキアゲ(お神酒上げ)と称する直会(なおらい)(飲食)を行っていた。また、元旦祭には、隔年交替で一方の神社へ講中全員が参拝するのを例としていた。ちなみに『新編武蔵野風土記稿』では、
 八幡宮、村ノ西ノ方山ノ中腹ニアリ……鎮座ノ年代詳カナラズ享保年中ノ棟札アリコノ時始テ祭レルニヤ……例祭ハ九月十五日百姓ノモチ
 東権現社、八幡ヨリ二町ハカリ北ニアリコレモ山上ニテ……鎮座ノ年代ヲ伝ヘス神体ハ女体ニシテ髪ヲ下ゲ手二花ヲ持テ立ツル像ナリ……例祭ハ当社及ヒ八幡ト同時ニテ年々九月十五日ナリ二社共ニ村ノ鎮守ナリコヽモ村民ノ持チナリ
 と記されている。このほか、『風土記稿』には記載されないが、貝取講中では一九軒全体で牛頭天王社を祀っていた。その祭日は七月十五日で、前日に氏子全員で境内の清掃を行い、翌日やはり神主抜きの神事と直会をし、子供神輿を渡御させた。この牛頭天王社の祭礼はニュータウンの整地と同時になくなり、今日では貝取神社の祭礼に含められている。
 貝取神社の氏子組織は、旧来からの貝取講中で、境内地の登録に関わる一九軒を正規の氏子として構成する。ただし、規約にもとづく氏子会はなく、また経常的な神社の維持運営費の徴収もない。神社の役員は氏子総代、副総代、会計の三役三名で任期を二年として一九軒中より選出している。また、この一九軒中よりは祭礼の世話役として毎年四~五名が家並順で年番となる仕組みとなっている。
 貝取神社として合祀される以前の祭礼は、在来家の一九軒で祭礼を実施してきた。その後、貝取神社になり、また地域の中に新住民を加えた貝取第一自治会(平成八年現在七二戸)が誕生してからは、氏子の年番に協力する形で、自治会も積極的に祭礼に関わるようになり、自治会の各班に設けられた諸行事(盆踊り、忘年会幹事役)担当役員が祭礼時に世話役として出席している。神事は以前同様、神主は来ず、氏子総代と旧氏子、それに自治会関係者で執り行われている。戦前から天王社の祭りで使われていた子供神輿が、今でも子どもたちによって渡御される。境内では自治会で所有する道具で子どもたちにかき氷が振舞われる。宵宮・祭礼当日とも自治会役員の参加が多く、一見自治会で祭りを行なっているようにもみえる。祭礼当日の直会には旧来の氏子のほか十数名の自治会役員が参加し、三〇名ほどによって行なわれている。これらを含めた祭典費用は総て当日の奉納金で賄われるという。
 行事としては、昭和六十二、三年ころから新年の初参りとして、大晦日の除夜から、二時ころまで、旧家に限らず自治会域に住む人々の参拝が数多くなった。そこでは参拝時間に合わせて、貝取第一自治会の役員が、甘酒の接待を行なうようになっている。

写真5-10 貝取神社