御嶽神社

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祭神は、櫛真智命(くしまちのみこと)である。
『新編武蔵風土記稿』には「年貢地、九坪程、字瓜生ニアリ、鎮座ノ年代ヲ伝ヘズ小祠ニテ……村持チ」とある。伝承によれば、今から二五〇年ほど以前に地元の市川源左衛門が勧請したものという。子孫の市川家では代々宮元を勤め、神社の会計や寄り合いを長く取り仕切ってきた。そのため、今でも、当家には明治・大正時代の祭典諸入費控が多数残されている。ニュータウン建設にともない平成元年九月三日に現在地(旧社地の場所)に新社殿の遷宮式を挙行した。遷宮式は代々瓜生の世襲的御師である青梅市御嶽の原島征四郎氏によって行われた。
 御嶽神社の氏子組織は、旧来からの瓜生講中で、現在の境内地の登録に関わる一八軒を正規の氏子として構成される。神社の役員は氏子総代・副総代・相談役・会計が各一名、会計監査が二名となっており、役員規定を主たる内容とする規約による氏子会を形成している。ただし、神社の経常的な維持運営費の徴収はない。現在、氏子総代は先祖が当社を勧請した市川家が担っている。平成元年の新社殿建築の際、旧来の氏子の一八軒に、新たな分家や地域の篤信者など三〇名ほどを加えた範囲で新たに氏子組織の結成が検討されたが、最終的には従来通りの旧家で社の所有を確認し合うことになった。毎年一八軒中より家並順に三軒が祭礼当番にあたることになっている。
 このように当社は旧家の氏子で維持する神社という意識の一方で、地域に成立している瓜生自治会(九八軒)でも、数年前より年番を出すようになり、平成四年からは、子供神輿を渡御させる世話に人手がいるとのことから毎年五名が神社当番の役を受け持つ仕組みとなっている。なお、祭礼費は社殿建設と神輿新調に際して生じた残金から支出し、最終的に奉納金を精算して出費に当てる。
 当社の祭日は、大正時代までは九月八日で、その後農作業の都合から九月十五日となり、昭和三十八年からは第二日曜日となっている。かつては「奉献蔵王宮瓜生中」と書かれた幟を立て、参道には絵入りの灯籠を飾った。宵宮には各家からご馳走を持ち寄って酒肴した。本祭りには、子どもたちに御供物として菓子が配られた。

写真5-11 御嶽神社


写真5-12 御嶽神社の祭礼

 今日、祭礼前夜にオコモリと称して氏子および自治会員が神社の隣の集会所で飲食をする。そこには六〇~七〇軒の参加が見られ盛況である。翌日の本祭りには神主は来ず、役員と当番によって神事が執り行われる。また、平成四年に新調した子供神輿が自治会内を渡御する。その日の内に祭典費が精算され、夕方からは役員と当番による鉢洗いが行われる。
 年間行事としては、除夜が明けた後、御嶽神社には氏子・自治会員その他の人の新年初参りがあり、二時ころまで甘酒が年番により振舞われる。
 かつては毎年の二月に御嶽神社の原島御師(おし)が御札を持って氏子各戸を回った。最近は、御師来訪の際氏子(近年に一八軒中二軒退会)が集会所に集まり、一同お祓いを受けたあと神札を受け取る。
 十一月には、青梅市の御嶽の原島荘にて、原島御師の講社の総会が開催される。その会には氏子および自治会からの当番の代表者四名が神社の費用で出席する。
 なお、平成二年四月二十二日に、平成元年神社再建を記念して、瓜生講中全戸で武州御嶽神社に参詣し「太々神楽」を奉納している。