八幡神社

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祭神は、応神天皇(おうじんてんのう)である。神社合祀の政策により、大貝戸(おおがいど)講中の氏神であった神明社が、明治四十四年六月に当社に合祀されている。
 『新編武蔵風土記稿』には、「勧請年代ヲ伝ヘス 棟札ニ天和二年再建(中略)神体ハ束帯ヲツケシ像ニテ長一尺ホド当村及ビ貝取二村ノ鎮守ナリ例祭年々九月十五日角力ヲ興行ス」とある。天和二年(一六八二)の再建棟札には、上乞田村三一名、下乞田村四一名、貝取村一〇名、宇龍村一七名となっている。境内にある手水鉢には「天保十一子年九月吉日 乞田村貝取村氏子中」とある。明治三十三年の「社寺明細帳」には創建は延徳二年(一四九〇)とされ、氏子は一〇七名となっている。「明治三十二年 鎮守祭例万控簿」「昭和十年 祭例計算簿」「昭和十七年 八幡神社計算簿」では氏子は別表のようになっている。
表5-3 乞田の戸数の変遷
年代 旧乞田地区 旧貝取地区 合計
久保谷 谷戸根 平戸 永山 大貝戸 貝取 瓜生
明治三二年 一二 一四 二二 一二 二〇 一九 一〇八
昭和一〇年 一三 一六 一〇 二七 二二 一八 一八 一二四
昭和一七年 一四 一六 一一 三一 二八 一九 一九 一三八

 しかし、昭和二十四年に神輿の造営を巡って貝取地区が氏子から離脱したため、その後は、乞田地区のみが氏子となっている。
 現在の氏子の範囲は上乞田(かみこった)自治会(この自治会は、久保谷・谷戸根・平戸の小字ごとに構成されていた講中と呼ぶ地縁集団と、前耕地に住み着いた在来家が合同して発足したもの)、大貝戸自治会、永山自治会となっている。これらの自治会は、いずれも旧家の居住する地域に成立した自治会で、多摩ニュータウンの開発後に新たに地区内に発足した自治会や住宅管理組合は含まれていない。
 当社には規約に基づく明確な氏子組織はない。しかし、慣例的に在来家を中心として一五〇〇円の祭典費(平成七年)が一律に徴収されており、その徴収対象者であるか否かが、氏子か否かを区別することになっている。平成七年の祭典費の徴収戸数は上乞田自治会一三四戸中約七〇戸、大貝戸自治会五九戸中約四〇戸、永山自治会五六戸中五二戸で、総計一六二戸前後となっている。神社の役員は、昭和三十年代半ばまでは三つの小字よりそれぞれに固定した旧家の一軒ないし二軒が総代となる習慣であった。現在では、その慣例も崩れ、上乞田自治会域より三名、大貝戸自治会域より二名、永山自治会域より三名の氏子総代が選出され、これら八名中の二名が責任役員となっている。
 昭和二十一年の神社規則には、大祭として、祈年祭二月二十八日、新嘗(にいなめ)祭十一月二十八日、例大祭九月十五日、遷座祭(せんざさい)、中祭として、歳旦祭一月一日、紀元節祭二月十一日、天長節祭四月二十九日、明治節祭十一月三日となっている。これらは戦前の慣例を踏襲し記載されているだけで実際は九月十五日に例大祭が行なわれるのみであった。
 明治三十二年の祭礼の様子を「祭礼会計簿」(有山昭夫家文書)でみると、氏子一〇七戸から一律に三六銭五厘を祭典費として徴収している。このほか、氏子以外に近隣の東寺方・落川新田・関戸・連光寺の「若者中」が各五〇銭、「商人中」が二二銭を奉納している。資料からは祭礼には縁日の出店があり、若者の遊びの場ともなっていたことがわかる。
 現在の祭日は、九月の第二日曜日を本祭り、その前後を宵宮と鉢洗いとしている。昭和三十七年以前は九月十五日を祭日としていた。
 祭礼は、総代と毎年、三〇名(戸)の祭礼当番によって運営される。祭礼当番は上乞田、大貝戸、永山の自治会域を単位として一〇名(戸)ずつ選出される。また、三自治会中一自治会が当番区となり、その年の式典・会計・接待・神輿巡行の責任を持つことになっている。各自治会における祭典当番一〇名の選出方法は、加入する氏子を家並順に割り当てる自治会もあれば、自治会の氏子を前もって五班に細分し、それぞれの班から毎年一〇名ずつ割り当てるようにしている地区もあり、まちまちとなっている。なお、祭礼に際しては各自治会より祝儀を奉納する慣例となっている(昭和六十二年の場合五〇〇〇円)。

写真5-13 八幡神社


写真5-14 八幡神社の祭礼

 祭礼は宵宮から始まる。宵宮には翌日神輿の渡御する巡行路を前もって、自動車の荷台に屋台を載せたはやし連が賑わしてまわる。
 祭礼当日は、午前中に神社の役員、三自治会長、地区選出市会議員、消防・交通安全委員などが列席して式典を挙行し、その後神輿の渡御となる。神輿の前には子どもたちが太鼓を曳き、神輿の後にはやし連の山車が続く。
 当社には二基の神輿があり、その巡行は神社から谷戸根、大貝戸、永山と廻りそこから大貝戸に戻り、平戸を廻り神社に戻るおよそ六キロメートルの距離である。途中で一〇か所ほどの休憩所がある。休憩所は集会所や公園、庭のある個人の家を使う。休憩時には、飲物や軽食が振舞われる。この時に飲物や昼食代わりの握り飯は神社が祭典費用で用意する。また、休憩所では地元の有志が費用を負担して接待に当たることもある。特に大貝戸自治会中の第一班に当たる地区では、祭りを盛り上げるため、協力会と称して任意で一四軒ほどが集まり、例年休憩所の接待に当たるのを習わしとしている。
 神輿を担ぐのは、昭和五十年ころから青友会という地元の神輿愛好会が中心となっている。この会は昔からの氏子に限らず、この地域で神輿担ぎを愛好する者によって結成されており、祭礼当日には神輿担ぎで青友会と付き合いのある八王子市大塚八幡神社の氏子青年と、地元乞田の祭りばやし連が交流する府中市中河原の神輿愛好会とが、神輿担ぎの応援に駈けつけてくれる。
 当地の神輿は昭和二十四年に新調された後、しばらくして担ぎ出されることもなくなった。その後、昭和四十九年に氏子中の青壮年層が地元の祭りを盛り上げようと神輿の渡御を復活する。そして、その翌年に、地元の祭り以外の神輿担ぎにでかけることも活動の一つに加えて、改めて氏子にとらわれず地元の神輿愛好者三七~三八名で「青友会」が結成された。青友会では昭和五十五年ごろに自前の大人神輿を新調し、今日まで例年担ぎ出すようになっている。
 昭和六十年ころより青友会が接待役となり始まった正月の初参り行事は、氏子および近隣住民の間に定着し、大晦日の除夜が明けてから、神社の参拝者にお札や破魔矢を頒布している。
 なお、大貝戸講中で祀っていた神明社は明治四十四年六月二十八日に乞田八幡神社に合祀される。そこで、社の地所の持ち主であった小礒家では、その跡地に社を祀り家の神として祀り続けることになった。戦前には五月の祭日に大貝戸講中の参拝もあったとされるが、今は神主も招かず、五月初旬の祭日に赤飯を供える程度で、全く個人の屋敷神祭祀となっている。