唐木田稲荷社

400 ~ 401
祭神は、倉稲魂神(うがたまのかみ)、猿田彦命(さるたひこのみこと)、大宮売命(おおみやのめのみこと)である。
 『新編武蔵風土記稿』には、この神社の記載はないが、棟札に「文化九年 三月二十九日再建 施主 横倉與兵衛 行年八十五心願」とあるという。宝暦十三年(一七六三)の『落合旧記』には「唐木田(からきだ)稲荷之社ハ藤太郎ノ地也 谷戸中之神也」とある。藤太郎は横倉家の先祖に当たり、與兵衛はその子孫であるという。
 昔、稲荷の森に美しい娘に姿を変えて村人を池に誘い込む大蛇がおり、それを村の若者が退治したところ、眼が見えなくなってしまった、という伝説がある。
 稲荷社境内が唐木田の在来家の共同登記となっており、これらの在来家の分家を含めて現在二六軒が氏子と意識されている。この中から役員が七名選出されている。年毎に祭礼や境内地の管理の世話の当番として二六軒より三軒ずつが家並順に当てられている。役員も当番になるわけで例年役員の誰かしらが重ねて当番にもなっている。平成二年に社殿が再建された。
 九月第二日曜を祭日とする。神主は特別なことがない限り来ず、地元の人々のみで参拝する。この日は、境内地にたつ自治会館をお神酒所とし、役員と当番がそこに詰めるだけのごく静かな祭りである。参詣人には「唐木田稲荷社」のお札を配布し、お神酒が振舞われる。祭典は唐木田自治会域に知らせてあるので、数は少ないものの新しく住むようになった人々の参拝もある。
 かつて祭典費を徴収したこともあるが、現在は年間維持費と祭典費の徴収はなく、祭礼時の奉納金ですべて処理している。区画整理後進出した商店からの奉納もある。
 昭和三十年代までは、初午前夜に唐木田講中を範囲とした廻り宿のお日待ちがあった。男たちが宿になった家で酒肴にて時を過ごした。初午当日は各自が五色の旗やツトッコに尾頭つきのイワシや赤飯、または強飯を供えた。子どもたちも講中内を賽銭箱を担いで寄付を集めて回った。
 現在は、お日待はなく信心のあるもののみが、旗やツトッコの供え物をする程度であり、子どもの賽銭集めも見られない。

写真5-18 唐木田稲荷の初午

 境内には、秋葉大権現の灯籠(「(正面)秋葉大権現、(右側)寛政十一未九月日、(左)施主 横倉与兵衛」)と、「寛政十二庚申年 十月吉日 施主 横倉與兵衛 同藤五良」の銘を持つ祭神不明の石祠と同じく寛政十二年の祭神不明の石祠、それに石仏三体が祀られている。