中組稲荷社

403 ~ 404
『新編武蔵風土記稿』に「二段田ニアリ小社ナリ」と記される。『社寺明細帳』では「雑社」とされる。伝承では中組の川井家が屋敷稲荷として祀っていたものを、いつしか中組講中全体で祀るようになったものである、といわれる。
 中組講中で祀る稲荷社で、新たな分家を含めて三〇軒ほどで氏子会を作っている。会とはいうものの、規約に基づくものではなく申し合わせの中で、氏子会は作られている。
 初午前日を宵宮として氏子が集会所でお神酒を酌み交わす習わしとなっている。この宵宮のお籠りは稲荷講ともお日待とも呼ばれ、集会所ができる前は講中の家を宿とした。この日に境内を清掃し、宮にしまってある明治以来の二〇数本の幟旗を建てる。なお、中組に所属する中沢の三軒は、地理的に山王下講中に近く、またその出自も山王下の横倉家の系統をひくところから、戦前までは稲荷の祀りに限って山王下講中の瘡守稲荷(かさもりいなり)の初午に参加していたが、戦後中組の初午に参加することになった。
 宵宮に行うお日待ちの費用は、神社の積み立て財産からと奉納とによって賄われる。
 初午当日は氏子各人が藁のツトッコに赤飯を盛り、油揚げや尾頭つきの目刺しをお供えする。この日は氏子が個々に参拝するだけで、特別な行事は行われず、夕方になり当番が幟を片づけて終了する。

写真5-20 初午の日の中組稲荷社

 なお、昭和十四年ころまで、初午の当日に学校から帰った子どもたちは、稲荷社の裏手に丸太を組み藁の屋根を葺いた小屋を作り、その中で餅を焼いたり甘酒を作ったりして日が暮れるまで遊ぶのを習わしとしていた。